コンスタンティヌス1世とキリスト教公認化
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「古代末期のキリスト教」の記事における「コンスタンティヌス1世とキリスト教公認化」の解説
ガレリウス皇帝が311年に死去すると混乱を極めて、ガリア属州を支配するコンスタンティヌス1世はリキニウスと結んでマクシミアヌスをアルルで滅ぼし、さらにマクセンティウスのイタリア侵入をはかった。312年のミルウィウス橋の戦いでコンスタンティヌス1世がキリスト教の啓示を受けてマクセンティウス皇帝を2000人の兵とともにティベリウス川に沈めて勝利した。コンスタンティヌス皇帝の啓示については諸説あり、後世の創作とも、帝国の統治のためともいわれるが、キリスト教思想に心を奪われたためともいわれる。皇帝はこれまでの慣例に従わず、カピトル丘のユピテル神殿にも元老院にも表敬訪問しなかった。その一方で、勝利はキリスト教のおかげであると公言して、キリスト教支援政策を始めた。コンスタンティヌス皇帝は、勝利への感謝としてローマ司教ミルティアデスにラテラヌス邸を贈った。東方のマクシミヌス・ダイアが迫害を実行していたため、これを阻止するためにコンスタンティヌス1世は312年冬にミラノでリキニウスと盟約を結び、妹とリキニウスとの婚約も議した。 同時期にマクシミヌスも迫害を休止、313年には教会への財産返還を認めた。内戦は小アジアに侵入したリキニウスが勝利し、マクシミヌスは自殺した。 313年6月、リキニウスはニコメディアでコンスタンティヌス1世との合議で「キリスト者およびすべての者らに、何であれその望む宗教に従う自由な権限を与える」との内容のミラノ勅令を出してキリスト教と信教の自由を公認した。313年から314年には次節で述べるようにドナトゥス派についてローマとアルルで教会会議を開いて決裁した。 315年には貨幣にキリストの頭文字による十字を打ち、318年にはローマ伝統宗教の供犠を禁止した。コンスタンティヌス1世が没するまでにキリスト教の力は飛躍的に上昇した。コンスタンティヌスの時に、司教の民事裁判権が認められ、また司教は都市参事会層からも多く選出されるようになっていった。リグーリア州総督アムブロシウスは洗礼直後だったが、司教にかつぎあげられた。 324年、コンスタンティヌス1世は次第にリキニウスに圧力をかけて謀殺し、帝国を統一して独裁を確立した。 325年には次々節で述べるようにアリウス派に関してニカイア公会議を開いた。 コンスタンティヌス1世皇帝は各地のキリストの聖遺物やゆかりの土地を探させて、そこに教会建設を命じて、ローマのウァティカヌス丘(Mons Vaticanus) にペトロの墓地があるとして教会をつくり、これがカトリック教会の本拠地バチカンとなった。326年には、エルサレムにコンスタンティヌス1世の母ヘレナを記念して聖墳墓教会が建立された。 ただし、コンスタンティヌス1世が洗礼をうけたのは、死去直前であった。
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