コンスタンツ公会議へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 04:43 UTC 版)
「ジャン・ジェルソン」の記事における「コンスタンツ公会議へ」の解説
最終的に事態は、公会議の強力なイニシアティブによってしか解決できないところにまで追い込まれていた。というのも新たに教皇ヨハネス23世を選出したピサ教会会議が教皇対立の解決どころか、第3の教皇をたてるという最悪の結果を引き起こしてしまったのである。ダイイはここにいたって公会議でも解決はできないと失望したが、ジェルソンはあきらめなかった。彼はまたもう1つの理由で公会議の実施を熱望した。それは同じころに起こった(ブルゴーニュ公ジャンの指示による)オルレアン公ルイの暗殺を合法的なものとして支持した神学者ジャン・プティに対するパリ大学とパリ司教の弾劾の実効性を公会議で確認しようとしたからである。 ジェルソンの熱意はついに皇帝ジギスムントを動かした。ここにおいて歴史にその名を残すコンスタンツ公会議が開かれた。この公会議では、3人の教皇たちの処遇とフス派への対応についてが話し合われた。最終的に公会議は3人の教皇を廃位、あるいは退位させて新教皇を立てることで分裂に終止符を打つことに成功した。ここでは公会議の権威の教皇権に対する優越を確認したことで知られ、それがそのままジェルソンの思想と同義にみられがちであるが、彼の著作を注意深く読めば、ジェルソンが「公会議の教皇権への優位は、教会分裂などの非常事態に限定される」と考えていることがわかる。ジェルソンはそこまで徹底した教会改革は志向してはいなかった。彼のものとされてきた教会改革に関する主要な著作も、研究者によってランドルフのアンドレアスらの手によるものだということがわかっている。 皮肉なことに、ジェルソンの名を不朽のものとしたこの公会議によってジェルソンは没落することになる。それはジャン・プティへの弾劾が黒幕のブルゴーニュ公の圧力で却下されたことによる。公会議はプティの問題は道徳に関することで、教義に関することではないため、弾劾に及ばないと結論したのである。ジェルソンはもはやフランスに戻るつもりはなかった。敵対するブルゴーニュ公が国内においてその権威を増していたからでもある。彼はコンスタンツ、ラッテンベルクといった都市に滞在して『神学のなぐさめ』などの書を執筆した。
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