コンスタンツ市の事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 10:14 UTC 版)
「シュヴァーベン戦争」の記事における「コンスタンツ市の事例」の解説
コンスタンツ市とその司教はこれらシュヴァーベン同盟とスイス同盟という2つの勢力の間に挟まれた。彼らはシュヴァーベンに領地を保持していた一方で、1460年の併合以来トゥールガウではスイスが低度司法権(日常的な軽犯罪への軽い罰則の行使など)を引き継いでいたにもかかわらず、コンスタンツ市が依然として高度司法権(死刑、拷問、公開処刑などをも含む)を行使し続けていたという事実もあったため、シュヴァーベン同盟の存在を危惧し、スイス同盟のチューリッヒ州とベルン州はコンスタンツ市の受け入れを提案した。しかし特にウーリ州をはじめ、同盟の創設メンバーである州が反対したため交渉は失敗に終わった。それでもやはりトゥールガウ州を分割した司法権は市と同盟間の多くの論争の原因となっていた。そのような対立、さらにトゥールガウがスイス同盟の共同主権地域であり、ウーリ州はその管理に関与する州の1つであったことなどが影響して、1495年にはウーリ州兵のトゥールガウ遠征を招いてしまった。この結果コンスタンツ市は略奪を止めさせて退却させるために合計3,000ギルダーを支払わなければならなくなった。 このようなスイス同盟間での諍いをよそに、ついにコンスタンツ市は1498年11月3日に正会員としてシュヴァーベン同盟に参加した。この時はまだ都市の同盟における位置づけが明確に定義されていなかったが、これがスイス人とシュヴァーベン人の間の対立を拡大させたもう一つの要因であることは間違いない。 その後、宗教改革中にチューリッヒ州とベルン州と再び同盟し、1548年のシュマルカルデン同盟に敗北した後にこの同盟との緊密な関係は最終的に断ち切られた。
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