ヴォルムス帝国会議、ルターとの関りとは? わかりやすく解説

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ヴォルムス帝国会議、ルターとの関り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/11 14:35 UTC 版)

リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の記事における「ヴォルムス帝国会議、ルターとの関り」の解説

リヒャルトトリーア大司教在任期間ドイツの宗教改革始まった時期にあたる。 一連の騒動は、マルティン・ルター1517年秋にヴィッテンベルク教会の門に95ヶ条の論題掲出したことで始まった初めアウグスティヌス修道会ルター)とドミニコ修道会の「口喧嘩程度のものだとみなされていたのだが、1518年アウクスブルクでの討論1519年ライプツィヒでの討論経て1520年破門脅迫勅書出される頃には異端騒ぎになっていた。ルター1520年暮れにこの脅迫勅書焼き捨て1521年1月ローマ教皇庁正式にルター対す破門状を出した1521年4月新皇カール5世ヴォルムス帝国議会ルター召喚し帝国としての対応を行うことにした。このときカール5世は、既に異端宣告受けているルターに対して行き帰りの身の安全」を保証して帝国議会出席するよう求めた。しかしこれは1414年ボヘミア宗教改革家ヤン・フス喚問の時と状況酷似していた。教会堕落糾弾して改革訴えたフスは、当時神聖ローマ皇帝による身の安全を保証受けてコンスタンツ公会議へ赴いたのだが、到着するやいなや捕縛され火あぶりにされたのだったルターに対しては、ルター派諸侯から帝国議会への出席を見送るべきだとか、護衛騎士100提供するだとかの申し入れがあった。しかしルターはこれらの庇護申し出断り帝国議会向かった。 このヴォルムス帝国議会で、リヒャルトトリーア大司教としてルター対す審問委員の長を務めた審問の席で、直接ルター問いかけたのは、リヒャルト部下法務官ヨハ・フォン・デル・エッケン(Johann von der Ecken)という人物である。審問委員ルター自説撤回求めたが、ルターはこれを断ったルターはこれで退席させられた。その後リヒャルト個人的にルター説得あたったリヒャルトが後に告解しところに拠るとリヒャルトは、このままではルター対す極刑課されることになるかもしれないと言い妥協求めたという。しかしルターは、それが神の意志であれば受け入れると応じた結局妥協得られなかったが、リヒャルトは、ルター無事に帰すことを皇帝確約させると約束しルターを立ち去らせた。

※この「ヴォルムス帝国会議、ルターとの関り」の解説は、「リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の解説の一部です。
「ヴォルムス帝国会議、ルターとの関り」を含む「リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の記事については、「リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の概要を参照ください。

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