ヴォルムス帝国会議、ルターとの関り
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「リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の記事における「ヴォルムス帝国会議、ルターとの関り」の解説
リヒャルトのトリーア大司教在任期間はドイツの宗教改革が始まった時期にあたる。 一連の騒動は、マルティン・ルターが1517年秋にヴィッテンベルクの教会の門に95ヶ条の論題を掲出したことで始まった。初めはアウグスティヌス修道会(ルター)とドミニコ修道会の「口喧嘩」程度のものだとみなされていたのだが、1518年のアウクスブルクでの討論、1519年にライプツィヒでの討論を経て1520年に破門脅迫勅書が出される頃には異端騒ぎになっていた。ルターは1520年の暮れにこの脅迫勅書を焼き捨て、1521年1月にローマ教皇庁は正式にルターに対する破門状を出した。 1521年4月、新皇帝カール5世はヴォルムス帝国議会へルターを召喚し、帝国としての対応を行うことにした。このときカール5世は、既に異端宣告を受けているルターに対して「行きと帰りの身の安全」を保証して帝国議会へ出席するよう求めた。しかしこれは1414年にボヘミアの宗教改革家ヤン・フスの喚問の時と状況が酷似していた。教会の堕落を糾弾して改革を訴えたフスは、当時の神聖ローマ皇帝による身の安全を保証を受けてコンスタンツ公会議へ赴いたのだが、到着するやいなや捕縛されて火あぶりにされたのだった。ルターに対しては、ルター派の諸侯から帝国議会への出席を見送るべきだとか、護衛の騎士を100人提供するだとかの申し入れがあった。しかしルターはこれらの庇護の申し出を断り、帝国議会へ向かった。 このヴォルムス帝国議会で、リヒャルトはトリーア大司教としてルターに対する審問委員の長を務めた。審問の席で、直接ルターに問いかけたのは、リヒャルトの部下の法務官ヨハ・フォン・デル・エッケン(Johann von der Ecken)という人物である。審問委員はルターに自説の撤回を求めたが、ルターはこれを断った。 ルターはこれで退席させられた。その後、リヒャルトは個人的にルターの説得にあたった。リヒャルトが後に告解したところに拠ると、リヒャルトは、このままではルターに対する極刑が課されることになるかもしれないと言い、妥協を求めたという。しかしルターは、それが神の意志であれば受け入れると応じた。結局妥協は得られなかったが、リヒャルトは、ルターを無事に帰すことを皇帝に確約させると約束し、ルターを立ち去らせた。
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