イタリア侵入とは? わかりやすく解説

イタリア侵入

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 07:54 UTC 版)

ランゴバルド人」の記事における「イタリア侵入」の解説

560年にアウドインが死去すると、その息子アルボインアルボイーノ)が即位した。ほぼ同じ頃、ゲピド族でも新たな王クニムンド(英語版)が即位し、この二人の王の下で両部族の対立再燃することになった。再び両部族の戦闘が始まると、当初アルボイン優勢に戦い進めたが、東ローマ帝国ゲピド族支援しはじめ、その援助得たゲピド軍に敗北して苦境陥ったこのためアルボインパンノニア新たに勢力拡大していたアヴァール人ハーン、バイアヌス(バイアン・ハーン)に同盟依頼したランゴバルド敗勢にある中で結ばれたこの同盟は、戦闘参加先立ってランゴバルド人保有する家畜十分の一アヴァール人引き渡し戦闘終了後には戦利品半分及び占領したゲピド族領土全てアヴァール側が接収するという、極めて不利な条件結ばれた。ゲピド側は対抗して東ローマ帝国援軍求めたが、皇帝ユスティヌス2世口約束のみで実際に援軍を送ることはなく、アヴァール人ランゴバルド人挟撃されたゲピド王クニムンドはドナウ川ティサ川の間で激戦の末に敗北し戦死した。この敗北によってゲピド族一部ランゴバルド人投降し一部アヴァール人隷属民とされ、他の生存者皇帝庇護求めて東ローマ帝国へと移り部族として消滅する至った。 こうしてゲピド族との戦い勝利を収めたアルボインであったが、ゲピド族よりも遥かに強力なアヴァール人脅威対処しなければならなくなった上、パンノニア周辺戦争の結果荒廃したことから、ゴート戦争参加によってその豊かさ知っていたイタリアへ移動画策した。ランゴバルド人兵力が十分でなかったことからイタリア侵攻成功確信できなかったアルボインは、現在の領土アヴァール人空け渡すが、移動後に帰還した場合には元の土地所有権ランゴバルド人返還するという契約アヴァール人と結び、スエビ人パンノニアノリクムローマ属州民、ゲピド人残党サルマタイ兵力加え、更に20,000人にも上るザクセン人招請してイタリアへ進発した。 こうして形成された、ランゴバルド人中核とする緩い結合集団は、アルボイン指揮の下で568年5月イタリア入った前年ナルセス解任されていた東ローマ帝国イタリア駐留軍はこの侵入対処できず、アルボイン北イタリア中部イタリア一体を制圧しミラノメディオラヌム)を拠点ランゴバルド王国(Regnum Langobardonum)を建設した

※この「イタリア侵入」の解説は、「ランゴバルド人」の解説の一部です。
「イタリア侵入」を含む「ランゴバルド人」の記事については、「ランゴバルド人」の概要を参照ください。

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