テトラルキアの崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「テトラルキアの崩壊」の解説
305年にディオクレティアヌスとマクシミアヌス正帝が退位すると、コンスタンティウス・クロルスが西の正帝となり、ガレリウスが東の正帝となった。西の副帝はフラウィウス・ウァレリウス・セウェルス、東副帝にはガレリウスの甥マクシミヌス・ダイアがなった。東帝国のガレリウス正帝とマクシミヌス副帝はキリスト教迫害を続行した。 306年にコンスタンティウス・クロルスが死ぬと、息子コンスタンティヌスが皇帝となるが、ガレリウス東正帝はコンスタンティヌスの皇位を認可せずにセウェルスを正帝とした。 一方、引退していたマクシミアヌス副帝の実子マクセンティウスがプラエトリアニ(近衛隊)の依頼で皇帝を宣した。ガレリウス帝はセウェルス帝をミラノ(メディオラヌム)からローマのマクセンティウス征討に向かわせたが、セウェルス軍の兵士たちはマクセンティウスの父であるマクシミアヌスが正帝に復帰したため離反したため、セウェルス帝は降伏した。307年にガレリウスはイタリアに侵入したが失敗し、セウェルス帝も殺害された。こうした内戦によって、テトラルキア体制は機能不全となった。 ガレリウスは308年、僚友リキニウスを正帝とし、コンスタンティヌスとマクセンティウスを副帝としたが、マクセンティウスは認めなかった。ガレリウスは死ぬ直前の311年4月にローマ帝国史上初のキリスト教寛容令を出し、礼拝を許可した。残ったマクシミアヌスはエジプト総督ヒエロクレス(英語版)の進言もあってキリスト教迫害を強化し、祭儀を教徒に強制し、抵抗する教徒は処刑されたり、鉱山に送られ、多神教を組織化したが、マクセンティウスと三皇帝との内乱で迫害は続かなかった。他方でマクセンティウスは迫害を行わず、教会財産を返還した。
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