衝突と和平とは? わかりやすく解説

衝突と和平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:14 UTC 版)

コンスタンティヌス1世」の記事における「衝突と和平」の解説

同じ頃、マクシミヌス・ダイアはこの同盟矛先自分に向かうのを確信してボスポラス海峡渡りビュザンティオン攻略した。この報せ受けたリキニウスコンスタンティヌス1世との会談中断してただちにイタリアからバルカン渡り、3軍勢アドリアノープルハドリアノポリス)へ向かうマクシミヌス・ダイア軍の前面封鎖した間もなくリキニウスマクシミヌス・ダイア打ち破りアナトリア後退する彼を追撃して自殺へと追い込んだ一方コンスタンティヌス1世は「フランク人」の侵攻対処すべくアルプス越えて北上し、これを撃退した。 こうしてローマ帝国の西半がコンスタンティヌス1世支配下入り、東半がリキニウス支配下入った。だが、共通の敵失った正帝間もなく対立始めた切っ掛け新たに副帝カエサル)としてバッシアヌス(英語版)を任命するというコンスタンティヌス1世提案であったコンスタンティヌス1世彼に自分異母妹アナスタシア英語版)を嫁がせていた。この任免詳細巡って両者対立し武力衝突至ったコンスタンティヌス1世314年晩夏、または316年の秋、リキニウス領土への侵攻開始し10月8日初戦となったイリュリアのキバラエ(現:クロアチアヴィンコヴツィ戦い英語版)で数的不利を跳ね返してリキニウス軍を大敗させた。リキニウスドナウ川下ってシルミウムへと逃れ、更に自軍アドリアノープルへと集結させた。その間、第2モエシア属州ドゥクスDux:公、将軍)でドナウ川下流域の軍を束ねていたウァレリウス・ウァレンス(英語版)を(恐らくその忠誠繋ぎとめるために)正帝任命した。そしてアドリアノープル近郊2度目の戦闘が行われた。その勝敗史料はっきりしないが、この戦いの後両者和平条件を巡る交渉行った。だが、使節通した交渉失敗し戦闘再開された。2度目の戦闘アルダ川流域行われたが、衝突後に両軍は敵を見失いコンスタンティヌス1世リキニウスが東のビュザンティオン退却した見て進軍し一方リキニウス北西ベロイア移動したために双方後方連絡線遮断された。317年3月1日セルディカで再び和平交渉が行われ今度和平合意成立したジョーンズ採用する編年では和平315年成立したとされている)。合意では領土的にコンスタンティヌス1世大幅な拡大成功しトラキアを除くバルカン半島のほぼ全域コンスタンティヌス1世支配下に入る事となった。そしてウァレリウス・ウァレンスは廃位され処刑されコンスタンティヌス1世長子クリスプス13歳前後)、ファウスタとの間の別の息子コンスタンティヌス当時出生直後)、そしてリキニウス2世1歳8か月)の3名を副帝とすることが定められた。以降321年または323年までの6年間、この和平維持された。

※この「衝突と和平」の解説は、「コンスタンティヌス1世」の解説の一部です。
「衝突と和平」を含む「コンスタンティヌス1世」の記事については、「コンスタンティヌス1世」の概要を参照ください。

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