マクシミアヌスとマクセンティウスの打倒とは? わかりやすく解説

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マクシミアヌスとマクセンティウスの打倒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:14 UTC 版)

コンスタンティヌス1世」の記事における「マクシミアヌスとマクセンティウスの打倒」の解説

正式な正帝であるガレリウスはこの混乱収拾するために308年11月11日パンノニアカルヌントゥムに、隠棲していたディオクレティアヌスと、かつて正規の西の正帝であったマクシミアヌス招待し会談の席を設けたディオクレティアヌスは自らが再び皇帝となることを拒み変わりマクシミアヌス再度退位するよう促したマクシミアヌスがこれを受け入れたことで、新たな四帝統治枠組み構築模索された。この会談マクシミアヌス正帝称号対す主張取り下げコンスタンティヌス1世正式な副帝であるということ確認された。ガレリウスの強い主張によって、もう1人正帝位には彼の親し友人であったウァレリウス・リキニアヌス・リキニウス が就任することになった。そしてマクセンティウスアレクサンドロス僭称者として全く無視された。 しかし、副帝マクシミヌス・ダイアリキニウス自分飛び越えて正帝昇進したことに納得せず自らも正帝称号要求した翌年には「正帝息子」という称号与えるという妥協案をガレリウス示したが、これを受け入れることは無かった。そしてコンスタンティヌス1世また、一旦名乗った正帝から副帝への「降格」を拒否した。この会議決定コンスタンティヌス1世にとっては屈辱であり、自らの支配地にある造幣所打刻され貨幣から正帝ガレリウスの名前を削って自分地位を譲るつもりがないことを示した結局コンスタンティヌス1世マクシミヌス・ダイア要求押し通すことに成功し310年にはガレリウス副帝廃止して両者とも正帝であることを宣言したガレリウスから正式に正帝としての承認得たコンスタンティヌス1世にとって、義父マクシミアヌス最早内部の敵と化していた。ディオクレティアヌス意向に従って2度目退位をした後もマクシミアヌス旺盛な野心維持しコンスタンティヌス1世権力を自らのものとする賭け打って出た310年春にフランク人」(ブルクテリ族討伐のためにコンスタンティヌス1世出征に出ると、マクシミアヌスコンスタンティヌス1世戦死した触れ回りガリア・ナルボネンシスアルル3度目正帝即位宣言するとともに各地軍団急使送ったコロニア(現:ケルン)でこの知らせ受けたコンスタンティヌス1世強行軍引き返しマクシミアヌス軍勢集め前に攻撃開始することに成功したマクシミアヌスマッサリアマルセイユ)に逃れたが、コンスタンティヌス1世はこれを追撃して310年の夏にはマクシミアヌス死に追いやった。 マクシミアヌスコンスタンティヌス1世によって殺害されるマクセンティウスは「突如再び親孝行息子となり『父なる神マクシミアヌス』を称える貨幣発行した。」(ジョーンズ)。更にマクセンティウスマクシミアヌスコンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルス義父でもあったことをも利用して、「義兄弟」である「神帝コンスタンティウス・クロルス」を称揚し暗にその後継者としてコンスタンティヌス1世支配するガリアブリタンニア対す正当な権利主張した311年にはガレリウス死去し312年夏までにはマクセンティウスがドミティウス・アレクサンドロスを打倒して北アフリカ奪回したため、残存する正帝」たちはコンスタンティヌス1世マクセンティウスマクシミヌス・ダイアリキニウスの4人となったコンスタンティヌス1世マクセンティウス対抗するためにリキニウスとの同盟模索し異母姉妹コンスタンティアとリキニウス婚約進めた。この動き脅威覚えたマクシミヌス・ダイアマクセンティウス同盟結んだ間もなくマクセンティウスローマ市を含むイタリアの諸都市設置されていたコンスタンティヌス1世の像や肖像画破壊し対決姿勢鮮明にした。後世歴史家ゾシモスはこの時、コンスタンティヌス1世ゲルマン人ケルト人などを含め歩兵9万人騎兵8,000騎を擁しマクセンティウス歩兵17万人騎兵1万8千騎を集めたと記す。しかし、現代学者はこの数字大幅に誇張されたものである考えている。同じくゾシモスの記録によればマクセンティウスラエティア(現:スイス南部)を攻略しコンスタンティヌス1世リキニウス勢力圏分断しようとしたが、コンスタンティヌス1世機先を制しアルプス越えてイタリア入った。セグシオ(現:スーザ)を攻略したのを皮切りにメディオラヌム(現:ミラノ)を味方につけ、タウリノルム(現:トリノ近郊プレシャヴェローナなど各地マクセンティウス軍勢打ち破った。 やはりゾシモスの記録によればコンスタンティヌス1世軍団ローマ市に迫ると、ローマ民衆敗北重ねマクセンティウス嘲笑し平静失ったマクセンティウス宣託すがった。そして彼は自分自身即位記念日10月28日)に吉兆があると知ってその日に戦うべく進軍した。こうしてティベレ川沿いで両者戦いミルウィウス橋の戦い)、コンスタンティヌス1世完勝収めてマクセンティウス戦死させた。312年10月29日コンスタンティヌス1世ローマ凱旋しマクセンティウスの首を穂先刺して行進することで古い支配者世を去ったことをローマ市民知らしめた。ローマ元老院コンスタンティヌス1世マクシムス偉大な/大帝)の称号授けて称えたコンスタンティヌス1世ローマ入場まつわる一連の出来事碑文情報からも確認できる

※この「マクシミアヌスとマクセンティウスの打倒」の解説は、「コンスタンティヌス1世」の解説の一部です。
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