マクシミアヌスとマクセンティウスの打倒
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「コンスタンティヌス1世」の記事における「マクシミアヌスとマクセンティウスの打倒」の解説
正式な正帝であるガレリウスはこの混乱を収拾するために308年11月11日、パンノニアのカルヌントゥムに、隠棲していたディオクレティアヌスと、かつて正規の西の正帝であったマクシミアヌスを招待し、会談の席を設けた。ディオクレティアヌスは自らが再び皇帝となることを拒み、変わりにマクシミアヌスに再度退位するよう促した。マクシミアヌスがこれを受け入れたことで、新たな四帝統治の枠組みの構築が模索された。この会談でマクシミアヌスは正帝の称号に対する主張を取り下げ、コンスタンティヌス1世は正式な副帝であるということが確認された。ガレリウスの強い主張によって、もう1人の正帝位には彼の親しい友人であったウァレリウス・リキニアヌス・リキニウス が就任することになった。そしてマクセンティウスとアレクサンドロスは僭称者として全く無視された。 しかし、副帝マクシミヌス・ダイアはリキニウスが自分を飛び越えて正帝に昇進したことに納得せず自らも正帝の称号を要求した。翌年には「正帝の息子」という称号を与えるという妥協案をガレリウスが示したが、これを受け入れることは無かった。そしてコンスタンティヌス1世もまた、一旦名乗った正帝から副帝への「降格」を拒否した。この会議の決定はコンスタンティヌス1世にとっては屈辱であり、自らの支配地にある造幣所で打刻される貨幣から正帝ガレリウスの名前を削って、自分の地位を譲るつもりがないことを示した。結局コンスタンティヌス1世とマクシミヌス・ダイアは要求を押し通すことに成功し、310年にはガレリウスは副帝を廃止して両者とも正帝であることを宣言した。 ガレリウスから正式に正帝としての承認を得たコンスタンティヌス1世にとって、義父マクシミアヌスは最早内部の敵と化していた。ディオクレティアヌスの意向に従って2度目の退位をした後もマクシミアヌスは旺盛な野心を維持し、コンスタンティヌス1世の権力を自らのものとする賭けに打って出た。310年の春に「フランク人」(ブルクテリ族)討伐のためにコンスタンティヌス1世が出征に出ると、マクシミアヌスはコンスタンティヌス1世が戦死したと触れ回り、ガリア・ナルボネンシスのアルルで3度目の正帝即位を宣言するとともに各地の軍団に急使を送った。コロニア(現:ケルン)でこの知らせを受けたコンスタンティヌス1世は強行軍で引き返し、マクシミアヌスが軍勢を集める前に攻撃を開始することに成功した。マクシミアヌスはマッサリア(マルセイユ)に逃れたが、コンスタンティヌス1世はこれを追撃して310年の夏にはマクシミアヌスを死に追いやった。 マクシミアヌスがコンスタンティヌス1世によって殺害されるとマクセンティウスは「突如再び親孝行な息子となり『父なる神帝マクシミアヌス』を称える貨幣を発行した。」(ジョーンズ)。更にマクセンティウスはマクシミアヌスがコンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルスの義父でもあったことをも利用して、「義兄弟」である「神帝コンスタンティウス・クロルス」を称揚し、暗にその後継者としてコンスタンティヌス1世が支配するガリアとブリタンニアに対する正当な権利を主張した。 311年にはガレリウスも死去し、312年夏までにはマクセンティウスがドミティウス・アレクサンドロスを打倒して北アフリカを奪回したため、残存する「正帝」たちはコンスタンティヌス1世、マクセンティウス、マクシミヌス・ダイア、リキニウスの4人となった。コンスタンティヌス1世はマクセンティウスに対抗するためにリキニウスとの同盟を模索し、異母姉妹コンスタンティアとリキニウスの婚約を進めた。この動きに脅威を覚えたマクシミヌス・ダイアはマクセンティウスと同盟を結んだ。間もなく、マクセンティウスはローマ市を含むイタリアの諸都市に設置されていたコンスタンティヌス1世の像や肖像画を破壊し、対決姿勢を鮮明にした。後世の歴史家ゾシモスはこの時、コンスタンティヌス1世がゲルマン人やケルト人などを含め歩兵9万人、騎兵8,000騎を擁し、マクセンティウスは歩兵17万人、騎兵1万8千騎を集めたと記す。しかし、現代の学者はこの数字は大幅に誇張されたものであると考えている。同じくゾシモスの記録によれば、マクセンティウスはラエティア(現:スイス南部)を攻略してコンスタンティヌス1世とリキニウスの勢力圏を分断しようとしたが、コンスタンティヌス1世は機先を制しアルプスを越えてイタリアに入った。セグシオ(現:スーザ)を攻略したのを皮切りに、メディオラヌム(現:ミラノ)を味方につけ、タウリノルム(現:トリノ)近郊、プレシャ、ヴェローナなど各地でマクセンティウスの軍勢を打ち破った。 やはりゾシモスの記録によれば、コンスタンティヌス1世の軍団がローマ市に迫ると、ローマの民衆は敗北を重ねるマクセンティウスを嘲笑し、平静を失ったマクセンティウスは宣託にすがった。そして彼は自分自身の即位記念日(10月28日)に吉兆があると知ってその日に戦うべく進軍した。こうしてティベレ川沿いで両者は戦い(ミルウィウス橋の戦い)、コンスタンティヌス1世が完勝を収めてマクセンティウスを戦死させた。312年10月29日、コンスタンティヌス1世はローマに凱旋し、マクセンティウスの首を槍の穂先に刺して行進することで古い支配者が世を去ったことをローマ市民に知らしめた。ローマ元老院はコンスタンティヌス1世にマクシムス(偉大な/大帝)の称号を授けて称えた。コンスタンティヌス1世のローマ入場にまつわる一連の出来事は碑文の情報からも確認できる。
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