マクシミリアン1世の統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 10:14 UTC 版)
「シュヴァーベン戦争」の記事における「マクシミリアン1世の統治」の解説
マクシミリアンは、皇帝フリードリヒ3世の子である。ブルゴーニュ戦争中にナンシーの戦いでブルゴーニュ公シャルルが亡くなると、マクシミリアンは1477年にマリー・ド・ブルゴーニュと結婚してブルゴーニュ公国とブルゴーニュ伯領、ネーデルラントを継承した。ブルゴーニュ政権を中央集権的な政府として拡大しようとしたが、1482年、ネーデルラントの都市と伯爵たちの反乱を引き起こすこととなった。彼らを裏で扇動していたのはマクシミリアンに対抗してブルゴーニュ公国の継承権を主張していたフランス王シャルル8世とその姉である。 1488年、マクシミリアンは敵に囚われ、ブルッヘに4か月間監禁された。父王フリードリヒ3世がマクシミリアンの従兄弟のザクセン公アルブレヒト(勇敢公)指揮下の軍隊を送ってくれたため、ようやく解放された。この紛争の第一段階は1489年まで続き、マクシミリアンはネーデルラントを占領されたままだったが、その後ドイツに戻り、アルブレヒトを彼の代理人として残した。アルブレヒト3世はその後数年かかって、ネーデルラントにおけるハプスブルクの中央集権的統治を確立させた。 1486年、マクシミリアンは父王フリードリヒ3世の主導でローマ王に選ばれ、それ以来共同統治を行っていた。1490年にジークムントは退位してすべての領土をマクシミリアンに引き渡すよう強いられ、また1493年にフリードリヒ3世の死に際して、マクシミリアンは皇帝マクシミリアン1世として即位し、父親の財産を引き継いで全てのハプスブルク家領を手中に収めた。こうしてほとんど同時に多くの権力が神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世のもとに集まったのであった。一方同年、サンリスの和約(英語版)でブルゴーニュの所有権をめぐるフランスとの戦争の終結が宣言されたが、これによってハプスブルク家とフランスの対立は決定的になった。マクシミリアン1世はネーデルラントとブルゴーニュ伯領を維持したが、ブルゴーニュ公国はフランス王に譲らなければならなかった。 このようなことがありつつも、マクシミリアン1世は東はチロルとフォアアールベルク、北は前方オーストリア、西はブルゴーニュ伯領に及ぶ、スイス同盟をほぼ取り囲む地域を支配することになった。
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