マクシミヌス暗殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 14:43 UTC 版)
「ローマ内戦 (238年)」の記事における「マクシミヌス暗殺」の解説
一方、マクシミヌスは自身の軍隊と共にローマに進撃した。元老院はゴルディアヌス父子の死を受けて、代わりの皇帝を擁立して、マクシミヌスに対抗する必要に迫られた。4月22日、元老院議員であったマルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムスとデキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌスを共同皇帝として擁立したものの、ローマ市民からの人気が低かったことから、その後継者としてゴルディアヌス1世の孫でゴルディアヌス2世の甥であったマルクス・アントニウス・ゴルディアヌス(のちのゴルディアヌス3世)を副帝とした。 体制が整ったところでプピエヌスは軍を率いて北上、バルビヌスはローマの守備に当った。一方マクシミヌスは北イタリアまで侵入しアクイレイアの攻略に取り掛かったが、補給が困難となったことや元老院の強硬な抵抗により先行きに不透明感があったことから、包囲が長引くにつれ軍中に不満・疑問が沸き上がり始めた。 5月10日、マクシミヌスの近衛隊(プラエトリアニ)が反乱をおこし、マクシミヌスは息子ガイウス・ユリウス・ウェルス・マクシムスや側近たちと共に軍中で暗殺され、マクシミヌス軍はプピエヌスに降伏した。なお、マクシミヌスの遺体はローマ市に送られた後にティベリス川へ投げ込まれた。
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