1864年:メキシコ皇帝の到着
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「メキシコ出兵」の記事における「1864年:メキシコ皇帝の到着」の解説
1864年の3月28日と31日にフランスの軍艦 コルドリエールの人員がマサトラン攻略に着手したが、当初はガスパル・サンチェス・オチョア大佐命令下のメキシコ人に抵抗されていた。 バセーヌ指揮下のフランス軍がハリスコ州グアダタハラを1月6日に攻略、ドエイ指揮下の軍がサカテカスを2月6日に攻略。さらに6月3日のアカプルコ陥落、7月3日のデゥランゴ占領および10月のハリスコ州、シナロア州での共和国軍撃破でフランス軍の勝利は決定的なものとなった。 4月10日にマクシミリアンは、「ミラマール条約」に署名し正式に帝冠を受諾し、5月28日(5月29日かも)にオーストリア海軍のノヴァラ号に乗ってベクルスに来航し、妃のベルギー王女シャルロッテと共にメキシコに上陸した。 彼はメキシコ皇帝マクシミリアンとして即位し、シャルロッテはスペイン語風にカルロッタと名を変えた。実際は、「フランス第二帝政の傀儡国家」第2次メキシコ帝国であった。この帝国はローマカトリック教会、上流階級の多くの保守層、土着の共同体などの支援を受けて成立し、ベニート・フアレス大統領の任期(1858年―1871年)は、皇帝マクシミリアン1世の統治(1864年―1867年)によって中断された。 マクシミリアン大公は当時の西洋での進歩的な思想の持ち主であった。彼は民主的に選挙された議員による議会と権限を分担する制限君主制を好み、児童の労働の廃止、労働時間を制限する法律などを制定した。またネイティブ・アメリカンの間では事実上の農奴制に転換していた農地貸与制度を廃止した。これらはメキシコの保守層にはたいへん自由主義的であるが、自由主義者は君主制を拒絶していたので、保守層のみならず自由主義者からも背を向けられることになり、マクシミリアンのメキシコ国内での支持者はほとんどいなくなった。 また、メキシコ帝国は誕生こそしたものの、皇帝の権限は絶対的なものではなかった。また第2次メキシコ帝国が地主層やカトリック教会などの保守層を基盤として成立したにも関わらず、皇帝マクシミリアン1世は自由主義的政策を断行したことでその支持すら失い、結果経済政策でも極めて保守的な富裕層との間で軋轢が生じ離反されることになった。 マクシミリアン1世はフアレスを首相として招聘して自由主義者を味方につけようとするがフアレスの拒絶によって失敗。結局、保守派からも自由主義派からも支持を得られず、フランスの軍事力のみが辛うじて帝国を支えていた。 しかし、そのフランス軍司令官のバゼーヌはメキシコ貴族の娘と結婚したことから、あろうことか自ら皇帝に即位しようと考え、密かにフアレス派と内通する始末であった。やがて南北戦争の混乱から脱したアメリカもフランスに対して撤兵を要求するとともに、政権を追われたフアレスに軍事支援を行いゲリラ戦を助けたことから国内情勢は混乱を極めた。 1864年11月13日、3隻のフランス軍艦(ヴィクトワール, ダサ およびディアマント)は13回にわたり砲撃を行い、マヌエル・ロサダ指揮下の帝国軍はマサトランを攻略した。
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