1864年-1896年
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「モンロー砦」の記事における「1864年-1896年」の解説
1864年、北軍ベンジャミン・バトラー少将が指揮するジェームズ軍がモンロー砦で結成された。1864年12月22日、アメリカ合衆国有色第2騎兵隊がモンロー砦で結成され、同じ日に近くのキャンプ・ハミルトンで第1騎兵隊が結成された。1864年から1865年に掛けてのピーターズバーグ包囲戦は、シティポイント(現在のホープウェル市)の基地からジェームズ川を使って支援が行われた。モンロー砦とウール砦でハンプトン・ローズを支配し続けることは、アメリカ連合国首都のリッチモンドを落とすための重要な鍵となるピーターズバーグを奪取するグラントの作戦を、海軍が支援するための重要な要因になった。ピーターズバーグが落ちると、リッチモンドは1865年4月2日から3日に掛けての夜に明け渡された。その夜、アメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスとその閣僚はリッチモンドを脱出し、リッチモンド・アンド・ダンビル鉄道を使って先ずダンビルに、さらにはノースカロライナ州に動いた。しかし、味方は敗北し、ロバート・E・リー将軍は北バージニア軍の残りと共に、翌週アポマトックス・コートハウスでグラントに降伏した。 1865年4月26日、ノースカロライナ州シャーロットでアメリカ連合国最後の閣議を開いた後、デイヴィスはジョージア州アーウィンビルで逮捕され、拘束された。短期間暖房もない開放型堡塁に監禁され、その後北軍軍医ジョン・C・クレイブンがデイヴィスにはもっと人道的待遇が必要だと主張した。ネルソン・マイルズ将軍がその変更を認め、デイヴィスをより住み心地のよい宿舎に移した。デイヴィスはモンロー砦に2年間囚われていた。その囚われの間の待遇は死を招くものだったと指摘する歴史家もいる。健康が衰えたデイヴィスは1867年5月に保釈で解放されたが、それはデイヴィスが不公平に扱われていると確信するようになったホレス・グリーリーやコーネリアス・ヴァンダービルトのような北部と南部の著名市民が運動した結果だった。連邦政府は合衆国最高裁判所首席判事のサーモン・P・チェイスが憲法上の配慮をしたために、刑事告発までには進まなかった。 『アメリカ合衆国砲兵隊のジャーナル』はジョン・ウィルソン・ラックマン中尉(後に将軍)やその他4人の砲兵学校士官によって1892年にモンロー砦で創刊された。ラックマンは『ジャーナル』の編集者を4年間(1892年7月から1896年1月)務め、その後も幾つかの原稿を掲載した。ウェストポイントの陸軍士官学校のある出版物では、ラックマンの「指導」と「第1級の質」の仕事によって、『ジャーナル』が世界でも上位に位置付けられる雑誌になったことは明白であると記した。この『ジャーナル』は1922年に『海岸砲兵ジャーナル』、1948年に『対空ジャーナル』と改名された。
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