1864年から1866年、上り調子の後の大災難
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「ノース・ブリティッシュ鉄道」の記事における「1864年から1866年、上り調子の後の大災難」の解説
ボーダー・ユニオン鉄道の全通以来、旅客列車はポート・カーライル鉄道のキャナル駅に発着していた。1864年までにはこの路線は全線が複線化され、1864年7月1日から旅客列車はカレドニアン鉄道線に入ってシタデル駅に発着するようになった。財務状態はいくらか良くなり、普通株に対して2パーセントの配当が8月に発表された。さらに興奮させる事態が起き、エディンバラ・アンド・グラスゴー鉄道は長い間カレドニアン鉄道に合併することを考えていたが、モンクランド鉄道(英語版)とともにノース・ブリティッシュ鉄道に合併することを考えるようになった。エディンバラ・アンド・グラスゴー鉄道はかなり重要な鉄道網で、スターリングからダンファームリンへの路線やバスゲートおよびモーニングサイド線などを含んでいた。さらにグラスゴー・ダンバートン・アンド・ヘレンズバラ鉄道(英語版)を運営していた。モンクランド鉄道は1848年により古い炭鉱鉄道をいくつか合同して設立され、エアドリー(英語版)およびコートブリッジ(英語版)周辺で鉄道を営業していた。こうした鉄道の主な事業は依然として鉱物資源の輸送であり、営業経費は高かったものの、十分な利益を上げていた。 エディンバラ・アンド・グラスゴー鉄道とモンクランド鉄道が1865年7月31日に合併し、その合併した会社が翌日ノース・ブリティッシュ鉄道に吸収されることを承認する法律が1865年7月4日に通過した。評論家の中には、エディンバラ・アンド・グラスゴー鉄道がノース・ブリティッシュ鉄道を吸収したのかもしれないと予想するものもいたが、実際のところ新しい取締役会は旧ノース・ブリティッシュ鉄道の取締役13人と旧エディンバラ・アンド・グラスゴー鉄道の取締役2人で構成されていた。ノース・ブリティッシュ鉄道はずっと日曜日にも列車を運行してきたのに対し、エディンバラ・アンド・グラスゴー鉄道では日曜日に列車を運転していなかったが、合併後はその本線で日曜日にも列車が運行されるようになった。これは、安息日の慣習を厳格に順守しようとする人たちからの抗議を招いたが、ノース・ブリティッシュ鉄道はこの点に関しては自身の立場に固執した。 この合併によりこれらの鉄道の他に、当時建設中であったシティ・オブ・グラスゴー・ユニオン鉄道の一部の株式もノース・ブリティッシュ鉄道が手にした。この線が完成すると、ノース・ブリティッシュ鉄道はこの路線とゼネラル・ターミナス・アンド・グラスゴー・ハーバー鉄道(英語版)を通ってクライド川の埠頭へと到達できることになる。 1865年夏の時点までに、ノース・ブリティッシュ鉄道は450マイル(約720キロメートル)の路線を有するまでに成長し、そのうちおよそ半分が複線、残りの半分が単線であった。これに加えてさらに40マイル(約64キロメートル)の単線の独立した会社の営業を引き受けていた。 1866年の時点での以下のカレドニアン鉄道との比較は、会社の状況をよく表している。 1866年ノース・ブリティッシュ鉄道カレドニアン鉄道認可株主資本 16,687,620ポンド 17,429,181ポンド 線路長 735マイル 673マイル 運輸収入 1,374,702ポンド 1,784,717ポンド うち旅客収入 561,185ポンド 638,376ポンド うち貨物収入 813,517ポンド 1,146,341ポンド 旅客列車マイル 2,577,614マイル 2,699,330マイル 貨物列車マイル 3,571,335マイル 3,976,179マイル 機関車数 367 479 客車数 1261 1068 貨車数 16,277 13,505 1866年春に、ホジソンは普通株に対して3パーセントの配当を宣言したが、株価は下がり続けた。1866年秋にはホジソンは再び普通株に対して3パーセントの配当を提案したが、会社の新しい書記官のジョン・ウォーカーは、財務委員会に対してノース・ブリティッシュ鉄道の真の財務状態について警告した。新しい優先株発行は失敗し、社債の利子や優先株に保証された配当を払うことは不可能であると示された。明らかに、新たな資本金で配当を支払おうと意図していたのである。これが明らかとなって、ノース・ブリティッシュ鉄道の普通株の株価は一晩で8パーセント下落した。幅広い財務の不適切さと不正経理が明らかとなり、すべてホジソンの責任とされ、1866年11月14日に開かれた臨時株主総会において報告された。 ホジソンはひどい頭痛がするとしてこの総会には出席せず、代わりに辞任届を送り付けた。前任の会長であったジョン・バルフォアが総会の議長を務めた。調査委員会は非常に長い報告を提出し、 単に株主に対して報告し、実際には存在せず実際に稼ぎだしたわけではないと知っていた収入を株主に分配するために、意図的な不正経理を長年にわたって行っただけでなく、半年ごとの収入報告書の偽造と事実の一般的な虚偽表示を支えるために注意深く非常に巧妙な架空口座の捏造が行われ、続けられてきた。 と述べられていた。 取締役会はほぼ全員が辞職し、4人のみが継続性のために残され、またこれ以前の決算書と宣言されていた配当金は撤回された。配当金の支払いはなくなり、代わりに償還まで4パーセントの利子を払う債券が発行された。総会は当然長くなり、荒れる場面もあった。翌日グラスゴー・ヘラルド紙に掲載された議事録は、2ページ半にも及んだ。 1866年12月12日、暫定会長が5.5パーセント優先株を総額1,875,625ポンド(2019年の価値にして175,038,900ポンドに相当)発行し、会社のすべての財務上の債務に充てる意図を発表した。12月22日のグラスゴー・ヘラルド紙は8行の記事を載せ、暫定会長が辞任し、ジョン・スターリング・オブ・キッペンダビーが会長に任命されたと報じた。 経営上の処理が続けられる中、1866年にはモンクトンホールからスミートン経由でダルキースへの路線(英語版)が開通し、ブレーン・バレー線も開通した。しかしブレーン・バレー線での旅客営業開始は、エスク・バレー線(英語版)が1867年に開業したのと同時であった。
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