1864年から1866年、上り調子の後の大災難とは? わかりやすく解説

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1864年から1866年、上り調子の後の大災難

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 01:45 UTC 版)

ノース・ブリティッシュ鉄道」の記事における「1864年から1866年、上り調子の後の大災難」の解説

ボーダー・ユニオン鉄道全通以来旅客列車はポート・カーライル鉄道キャナル駅に発着していた。1864年までにはこの路線全線複線化され、1864年7月1日から旅客列車カレドニアン鉄道線に入ってシタデル駅に発着するようになった財務状態いくらか良くなり、普通株に対して2パーセント配当8月発表された。さらに興奮させる事態起き、エディンバラ・アンド・グラスゴー鉄道長い間カレドニアン鉄道合併することを考えていたが、モンクランド鉄道英語版とともにノース・ブリティッシュ鉄道合併することを考えようになった。エディンバラ・アンド・グラスゴー鉄道はかなり重要な鉄道網で、スターリングからダンファームリンへの路線やバスゲートおよびモーニングサイド線などを含んでいた。さらにグラスゴー・ダンバートン・アンド・ヘレンズバラ鉄道英語版)を運営していた。モンクランド鉄道1848年により古い炭鉱鉄道いくつか合同し設立され、エアドリー(英語版)およびコートブリッジ(英語版周辺鉄道営業していた。こうした鉄道主な事業依然として鉱物資源輸送であり、営業経費高かったものの、十分な利益上げていた。 エディンバラ・アンド・グラスゴー鉄道とモンクランド鉄道1865年7月31日合併し、その合併した会社翌日ノース・ブリティッシュ鉄道吸収されることを承認する法律1865年7月4日通過した評論家中には、エディンバラ・アンド・グラスゴー鉄道ノース・ブリティッシュ鉄道吸収したのかもしれない予想するものもいたが、実際のところ新し取締役会は旧ノース・ブリティッシュ鉄道取締役13人と旧エディンバラ・アンド・グラスゴー鉄道取締役2人構成されていた。ノース・ブリティッシュ鉄道はずっと日曜日にも列車運行してきたのに対し、エディンバラ・アンド・グラスゴー鉄道では日曜日列車運転していなかったが、合併後その本線で日曜日にも列車運行されるようになった。これは、安息日慣習厳格に順守しようとするたちから抗議招いたが、ノース・ブリティッシュ鉄道はこの点に関して自身立場固執した。 この合併によりこれらの鉄道の他に、当時建設中であったシティ・オブ・グラスゴー・ユニオン鉄道一部株式ノース・ブリティッシュ鉄道が手にした。この線が完成すると、ノース・ブリティッシュ鉄道はこの路線とゼネラル・ターミナス・アンド・グラスゴー・ハーバー鉄道英語版)を通ってクライド川埠頭へと到達できることになる。 1865年夏の時点までに、ノース・ブリティッシュ鉄道450マイル(約720キロメートル)の路線有するまでに成長しそのうちおよそ半分複線残り半分単線であった。これに加えてさらに40マイル(約64キロメートル)の単線独立した会社営業引き受けていた。 1866年時点での以下のカレドニアン鉄道との比較は、会社状況をよく表している。 1866年ノース・ブリティッシュ鉄道カレドニアン鉄道認可株主資本 16,687,620ポンド 17,429,181ポンド 線路735マイル 673マイル 運輸収入 1,374,702ポンド 1,784,717ポンド うち旅客収入 561,185ポンド 638,376ポンド うち貨物収入 813,517ポンド 1,146,341ポンド 旅客列車マイル 2,577,614マイル 2,699,330マイル 貨物列車マイル 3,571,335マイル 3,976,179マイル 機関車367 479 客車数 1261 1068 貨車16,277 13,505 1866年春にホジソン普通株に対して3パーセント配当宣言したが、株価は下がり続けた1866年秋にホジソンは再び普通株に対して3パーセント配当提案したが、会社新し書記官ジョン・ウォーカーは、財務委員会に対してノース・ブリティッシュ鉄道真の財務状態について警告した新し優先株発行失敗し社債利子優先株保証され配当を払うことは不可能であると示された。明らかに新たな資本金配当支払おうと意図していたのである。これが明らかとなってノース・ブリティッシュ鉄道普通株株価一晩で8パーセント下落した幅広い財務不適切さと不正経理が明らかとなり、すべてホジソン責任とされ、1866年11月14日開かれた臨時株主総会において報告された。 ホジソンはひどい頭痛がするとしてこの総会には出席せず、代わりに辞任届を送り付けた。前任会長であったジョン・バルフォアが総会議長務めた調査委員会は非常に長い報告提出し、 単に株主に対して報告し実際に存在せず実際に稼ぎだしたわけではない知っていた収入株主分配するために、意図的な不正経理長年わたって行っただけでなく、半年ごとの収入報告書偽造事実一般的な虚偽表示支えるために注意深く非常に巧妙な架空口座捏造が行われ、続けられてきた。 と述べられていた。 取締役会はほぼ全員辞職し、4人のみが継続性のために残され、またこれ以前決算書宣言されていた配当金撤回された。配当金支払いなくなり代わりに償還まで4パーセント利子を払う債券発行された。総会は当然長くなり、荒れ場面もあった。翌日グラスゴー・ヘラルド紙に掲載され議事録は、2ページ半にも及んだ1866年12月12日暫定会長が5.5パーセント優先株総額1,875,625ポンド2019年価値にして175,038,900ポンドに相当)発行し会社すべての財務上の債務充てる意図発表した12月22日グラスゴー・ヘラルド紙は8行の記事載せ暫定会長辞任し、ジョン・スターリング・オブ・キッペンダビーが会長任命されたと報じた経営上の処理が続けられる中、1866年にはモンクトンホールからスミートン経由でダルキースへの路線英語版)が開通し、ブレーン・バレー線も開通した。しかしブレーン・バレー線での旅客営業開始は、エスク・バレー線(英語版)が1867年開業したのと同時であった

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