1864年大統領選挙での再選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:00 UTC 版)
「エイブラハム・リンカーン」の記事における「1864年大統領選挙での再選」の解説
詳細は「1864年アメリカ合衆国大統領選挙」を参照 リンカーンは共和党の主流派をまとめ、エドウィン・スタントンやアンドリュー・ジョンソンといったタカ派民主党(英語版)もまとめる政治の達人だった。リンカーンは一週間の多くの時間を割いて、全国の政治家と会話し、平時に大きく拡大されていたその権限も使って、共和党の派閥を一つにまとめ、自身の政策に対する支持を築き、急進派からの大統領候補指名追い落としの動きを封じた。1864年共和党大会では、南部州であるテネシー州出身のタカ派民主党員アンドリュー・ジョンソンが副大統領候補に指名された。リンカーンはタカ派民主党員とともに共和党員を含めるその連衡を広げるために、新しく国民統一党(英語版)という党名で出馬した。 グラントの春の作戦が犠牲も多い手詰まりとなると、軍事的な成功がないことはリンカーンの再選可能性を著しく損ない、国中の共和党員はリンカーンが落選することを怖れた。この恐れを共有したリンカーンは、もし落選することがあっても、ホワイトハウスを明け渡す前に南軍を破るという下記のような誓約書を書き、署名した。 今朝、数日が過ぎ、この内閣が再選されない可能性が十分にあると思われる。そのときは、次期大統領と協力して選挙と就任式の間に連邦を救うのが私の任務であろう。次期大統領がその後では連邦を救えないという前提で、その選挙結果を得たであろうからである。 リンカーンはこの誓約書を閣僚に見せなかったが、封をした封筒に署名することを求めた。 1864年アメリカ合衆国大統領選挙、リンカーンが獲得した州は赤色、南部では投票が行われなかった 1865年3月に行われたリンカーンの2度目の就任演説。議事堂はほぼ完成している 民主党の綱領は和平推進派が主導してこの戦争を「失敗」と称したのに対し、その候補者ジョージ・マクレランは戦争を支持して、この綱領を否定した。リンカーンはグラントにさらに多くの軍隊を供給し、党を動員してグラントの戦争遂行に対する支援を新たにさせた。9月にシャーマンがジョージア州アトランタを占領し、またデヴィッド・ファラガットがアラバマ州モービルを占領したことは、敗北主義者のイライラを終わらせた。民主党が大きく割れ、指導者のいくらかと兵士の大半は公然とリンカーンを支持した。対照的に全国統一党はリンカーンが奴隷解放を中心議題に据えたことで、統一され活性化された。州レベルの共和党はカッパーヘッドの背信を強調した。リンカーンは3州を除いた全州を制し、北軍兵士の票の78%を得て、圧勝で再選された。 1864年11月10日夜、リンカーンは、当選を祝してホワイトハウスの外に集まった人々への返礼として、短い言葉を述べた。その中でも、選挙を取りやめたり延期したりしたら、それだけで反乱者たちに敗れ去ったことになると語り、一大内戦の最中でも人民の政府は全国的選挙を行ってみせることができることを証明したと、アメリカ合衆国の健全さと強固さを強調した。
※この「1864年大統領選挙での再選」の解説は、「エイブラハム・リンカーン」の解説の一部です。
「1864年大統領選挙での再選」を含む「エイブラハム・リンカーン」の記事については、「エイブラハム・リンカーン」の概要を参照ください。
- 1864年大統領選挙での再選のページへのリンク