1865(元治元・慶応元)年から1914(大正3)年にかけて
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「日米関係」の記事における「1865(元治元・慶応元)年から1914(大正3)年にかけて」の解説
安政五カ国条約の一つとして結んだ日米修好通商条約に代わり、陸奥宗光外相の成果により(第2次伊藤内閣、伊藤博文首相)の1894(明治27)年11月22日、栗野慎一郎駐米公使とウォルター・グレシャム国務長官のあいだで「旧日米通商航海条約」が調印され、5年後の1899(明治32)年7月17日に効力が発生した。陸奥外相時代に締結されたため、日本が他の国と締結した通商航海条約とともに「陸奥条約」と通称される。これによって日本・アメリカ間で、両国の通商航海の自由と内国民待遇が原則となり、アメリカが日本に対し保有していた領事裁判権が撤廃され、日本は関税自主権の一部回復も果たした。ただし、この条約にあっても、その第2条においてアメリカは日本人移民の入国・旅行・居住に対して差別的立法をなしうる規定を有した。 日露戦争中の1905(明治38)年7月29日に、内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、フィリピン訪問の途中に来日したアメリカ合衆国特使であったウィリアム・タフト陸軍長官(のち第27代大統領)との間で「桂・タフト協定」が交わされた。この協定により、アメリカは日本による韓国併合を承認し、当時の大韓帝国における日本の支配権を確認し、日本はアメリカのフィリピンにおける支配権を確認した。列強が勢力を模索する時代の中で、日米両国の首脳が相手国の権利を相互に承認し合った協定といわれ、その後の日米関係を円滑にするものであった。また、1902(明治35)年の日英同盟を踏まえたもので、イギリスを含めた日本・イギリス・アメリカの三国による東アジアの安全保障について意見が交換された。 日露戦争下でアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は日本海海戦の後に小村寿太郎外務大臣から要請を受け、1905(明治38)年6月6日に日本・ロシア帝国両国に対し講和勧告を行い、ロシア側は12日に公式に勧告を受諾した。アメリカのルーズベルト大統領の仲介により講和交渉のテーブルに着いた両国は、同年8月10日からアメリカのニューハンプシャー州ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年(明治38年)9月5日に締結・同年11月25日に発効されたポーツマス条約により講和がなされ、戦争は日本の勝利に終わった。 1908(明治41)年11月30日にアメリカ合衆国国務長官エリフ・ルートと、日本の高平小五郎駐米大使の間で行われた交渉を経て、「高平・ルート協定」が調印された。 陸奥条約(旧日米通商航海条約)は、12年後の1911(明治44)年7月16日が満期日にあたっており、1909(明治42)年8月、第2次桂内閣(桂太郎首相)はそれに向けて条約完全改正の方針を閣議決定した。1910(明治43)年には桂内閣の外務大臣小村壽太郎が条約の規定にしたがって、満期日の1年前にあたることからアメリカも含めて13か国に廃棄通告を施行した。 この不平等条約改正のための日米間交渉は1910年(明治43年)4月から実施された。日露戦争の勝利により日本の国際的地位は格段に向上しており、日本における立憲政治の充実が海外にも認知され、日本の法体系への不信感も希薄化していたため、対米交渉は比較的順調に進行した。首相桂太郎も、専任の大蔵大臣を設置せず、これを首相兼任として小村の条約改正を自ら全面的にバックアップした。 1911(明治44)年2月21日、アメリカの首都であるワシントンD.C.で日本の内田康哉駐米大使とフィランダー・C・ノックスアメリカ合衆国国務長官のあいだで新しい「日米通商航海条約」が調印された。陸奥外相時代の旧通商航海条約には日本人移民をアメリカ政府が国内法で制約できる留保条項が設置されていたが、日本人移民はアメリカによるハワイ併合後の1900(明治33)年以降さらに顕著に増加しており、日本政府は移民に対する差別的法律が合衆国内で制定されるのを回避するため、1907(明治40)年及び1908(明治41)年に日米紳士協約(en)を締結し、自主的に移民を制限した。しかし移民問題は解決されなかったので、日本政府は日本人労働者のアメリカ移住に関し過去3年間実施してきた移民の制限と取締りを今後も維持することをアメリカ側に宣言し、旧条約の失効と同時に発効する新しい通商航海条約を結び、従前の留保条項を削除したうえで関税自主権を完全に回復することに成功した。アメリカ上院議会は新条約の批准にあたり、1907年(明治40年)の日本人移民のハワイからアメリカ合衆国本土への転航禁止令の有効性について日本側に確認を求めたが、日本はそれに同意した。 新条約は1911(明治44)年4月4日に発効し、日本はアメリカに対して関税自主権の回復を伴う改正通商航海条約を締結し、税権の回復を達成し、外交上アメリカとも完全に対等の立場に立つこととなった。しかしアメリカは1924(大正13)年、ジョンソン=リード法(通称「排日移民法」)により紳士協約を一方的に廃棄している。 1912(明治45・大正元)年、日本の人々は「日米友好の証」として、3020本の桜の木をアメリカに贈呈した。アメリカ合衆国のファーストレディであったヘレン・ヘロン・タフト大統領夫人(Helen Herron Taft)と当時駐米日本大使であった珍田捨巳伯爵の夫人は二本の桜の木をタイダルベイスンの北岸に植樹した。これらの二本の木は現在でも17番街の南端にあるジョン・ポール・ジョーンズ像の近くにある。労働者は残りの木をタイダルベイスンと東ポトマック公園の周辺に植樹した。
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