1865年までの論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 16:00 UTC 版)
アメリカ合衆国全体の動きについてはアメリカ合衆国の歴史 (1789-1849)を参照。 アメリカ独立からアメリカ合衆国憲法の制定までの期間、各州は連合規約に従った弱い政府の下で連衡の形を取っていた。そこでの連邦政府は個別の州を牛耳るような権威は有ったとしてもほとんど無いに等しい状態だった。憲法の制定で連邦政府の力が強くなり、国全体を治めるために必要な権力の行使が認められたが、共存する2種類の政府の「レベル」を示す境界は曖昧であった。州法が連邦法と一部重なり合う場合、憲法第6条の最高法規条項によって連邦政府優位に問題を解決した。最高法規条項では連邦法が「この国の最高法規」と宣言し、「あらゆる州の判断は連邦法によって規制される」と規定した。しかし、最高法規条項は連邦政府が憲法で承認される権力を働かせるときにのみ適用される。 連邦党が1798年に外国人・治安諸法を成立させた時、トーマス・ジェファーソンおよびジェームズ・マディソンは密かに「ケンタッキー州およびバージニア州決議」を書き、州の権限を支持する有名な文章を認めた。この理論によれば、連邦組織は自発的な州の集まりであり、中央政府が行き過ぎた場合には、各州がその法を無効化する権限があるとしていた。ジェファーソンはケンタッキー州で次のように語った。 決議案。アメリカ合衆国を構成する幾つかの州は無制限に連邦政府に服従するという原則で連邦に加盟しているのではない。しかし、アメリカ合衆国憲法およびその修正条項という様式と表題の下の盟約により、特別の目的のために連邦政府を構成し、ある定義された権力を連邦政府に委任しているのであり、各州自体にはその州を自ら治めるための残りの権利を留保している。連邦政府が委任されていない権力を担おうとすることは承認されていないことであり、無効であり、強制力がない。各州が州として同意したこの盟約については一体の当事者であるが、州が共同してあたるもの自体は別物である。各当事者は違背しているものかという判断、また矯正の様式や手段を独自に判断する平等な権利を有する。 「ケンタッキー州およびバージニア州決議」とそれを補強したマディソンによる1800年報告書はジェファーソンの民主共和党の根幹をなす文書となった。州の権限を声高く主張したジョン・ランドルフのような支持者は1820年代から1830年代に「古共和党員」と呼ばれた。 米英戦争の時に州の権限に関する論争が起こった。ニューイングランド諸州の代表がハートフォード会議に集まり、マディソン大統領と戦争に反対して合衆国からの脱退を議論した。つまり連邦政府の判断で行っている外国との戦争に対し、州の判断で反戦の意志を表示するものであった(米英戦争に対する反戦運動を参照)。
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