2度目の就任とは? わかりやすく解説

2度目の就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 07:52 UTC 版)

松平忠固」の記事における「2度目の就任」の解説

両者罷免後に、かえって幕府内での孤立深めた正弘は、安政2年1855年10月には開国派の巨頭堀田正睦老中招聘した。しかも正睦へは、形式的に首座地位まで譲ることで斉昭のような外部からの抗議矛先を躱しつつ実権確保し幕政専念できる体制造り取り組んだ。ただ、その甲斐も無く安政4年1857年6月在任のまま正弘死去後事託され堀田正睦日米間の条約交渉を共に推進する同志として、開国派の忠優を復帰させる決断をした。忠固と改名した忠優は、勝手掛兼ね次席格の老中として再び敏腕揮う機会得た再任後の忠固は日米修好通商条約締結につき、勅許不要論唱え一刻早い締結主張し、要勅許唱える外野の斉昭や松平慶永対立したまた、慶永や尾張藩主徳川慶勝将軍継嗣問題一橋慶喜推して雄藩連合でこの難局対処すべしと主張したに対して、忠固は紀州藩主徳川慶福将軍とし、従前どおり譜代大名中心幕政進めるべしと考えていた。 日米修好条約勅許を得るために上洛中の正睦を、忠固は見限って近江国彦根藩主井伊直弼大老にする工作行った一説によると、一橋派寝返った正睦を直弼に逐わせ、直弼傀儡にして自らが老中首座として佐幕路線突っ走る目論見があったといわれる。しかし、直弼大老として既に13代将軍・徳川家定から全幅信任受けており、忠固などいつでも逐える体制整えていたのは彼によって予想外のことであった。 なお、忠固は南紀派であったという解釈一般的であるが、実際にはどちらにも与せず中立であったという説もある。南紀派井伊直弼一橋派松平慶永それぞれ将軍継嗣問題絡んで忠固に黄金贈ろうとしているが、忠固は受け取らなかった。後世に忠固が評価されていないのは、その中立的スタンス災いして一橋派からも南紀派からも悪く言われたためではないかとも思われる安政4年1857年)のあいだ、忠固は条約専念し将軍継嗣問題中立であったが、安政5年入って永の説得受け入れ一橋支持立場で、家定大奥説得務めた家定一時的に忠固の説得受け入れたが、大奥反対を覆せなかったというのが真相であろう一橋派天皇政治利用し、過激化して将軍廃立まで主張するようになり、忠固は激怒して一橋派から離れた。忠固に対す一橋派期待大きかっただけに、裏切られたと思ったときの反動大きく、忠固は当初から南紀派であったのに、それを隠して、慶永に協力するような態度見せ一橋派を罠にかけて騙し、陰で井伊直弼大老にする工作行ったという「物語」を作り上げた一橋派立場貫いた堀田正睦京都から江戸帰着した早々安政5年4月22日家定対し松平慶永大老推挙する建議行ったが、家定怒りを買い、井伊直弼大老就任厳命された。4月23日大老就任した井伊直弼は、条約締結にあたって勅許を得るか否かで忠固と激しく対立し5月12日には忠固の罷免家定要請した家定回答は、「奥向之者」たちが忠固を「精忠之者」と評価しその方井伊直弼とともに手を組んで政局当たってほしいと希望しているので、将軍後継問題が片付くまで待ってほしいというものであった5月19日に忠固罷免再度申し入れたが、堀田罷免するが、忠固は留任させる堀田には奥向支持は無いが、忠固は奥向評判がよいからという回であった。どうしても忠固を切りたい井伊は、5月25日堀田罷免同意するので、忠固も罷免してほしいと家定提案し結局将軍後継決まり次第堀田と忠固を同時に罷免することに決まった日米交渉における忠固のスタンス一貫している。当時破竹の勢いアジア諸国植民地化し、清国二度渡って侵略戦争仕掛け同国関税自主権奪って強引にアヘン売りつけ大英帝国艦隊日本襲来する前に相対的に穏当な交渉相手であるアメリカタウンゼント・ハリスとの間で、少しでも日本有利な内容最恵国条約結んでしまおうというものであり、そのためには朝廷勅許など待ってはいられなかった。朝廷勅許こだわっていたのは正睦と直弼であり、強い意志条約調印決断したのは忠固であった直弼松平慶永語ったところによれば、老中若年寄三奉行海防掛一同揃った調印当日6月19日午前中城中評議席上直弼は「天意孝明天皇意志)をこそ専らに評定あり度候へ」と、勅許優先させることを訴えたが、忠固が「長袖公卿)の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限り取り計らハすしては、覇府もなく、時機を失ひ、天下の事を誤る」と即時条約調印主張若年寄本多忠徳以外はみな忠固に賛成した結局そのまま調印至った条約調印最終段階において直弼無力だったのであり、忠固こそが閣議リードしていた様子伺える。直弼は完全に孤立したため、翌日、慶永のもとを訪れ貴兄初の援助依頼するの他なし。伊賀(忠固)抔は小身者分際として此頃権威誇り傍若無人有様此度の事抔も我意任せて京都押付んと致す條、言語道断なり」と怒りをぶつけ、忠固と正睦を失脚させる事への協力依頼した。忠固を失脚させるため、南紀派直弼一橋派一時的に手を組んだのである条約調印から2日後6月21日老中5名の連署で、英仏連合軍清国打ち勝ちそのまま日本押し寄せてくる情勢なので、やむを得ずアメリカとの条約調印至った、という内容奉書京都送られた。その奉書中に大老井伊直弼の名は無い。 条約調印から4日後の6月23日、忠固は正睦と共に老中免職蟄居命じられた。安政の大獄始まりである。勅許得ず条約締結し、かつ朝廷に対して条約締結事後報告済ませたのは不遜極みとして責任を取らされたともいわれ、あるいは閣内直弼権力を争うに至り機先を制した直弼異分子排除したともいわれる。 なお日米修好通商条約調印先立ち安政4年1857年)忠固は産物会所国元江戸設置し上田藩特産品であった生糸江戸へ出荷する体制作り上げ生糸輸出準備させていた。横浜開港同時に生糸輸出始めたのも上田藩であったその後明治から昭和初期まで生糸日本最大輸出品として日本経済支え続けたことを考えると、開国見据えた忠固の先見性確かなものであったことが分かる安政6年1859年9月14日急死享年48表向きには病死報告されているが暗殺説もあり、跡継ぎ決まっていなかったため、家名断絶恐れた藩により暗殺極秘にされたという説である。急遽跡を三男の忠礼が継いだ墓所天徳寺東京都港区虎ノ門3丁目)、後に改葬され多磨霊園東京都府中市多磨町)。 遺訓は「交易世界通道なり。皇国前途交易によりて隆盛を図るべきなり。世論囂々たるも開くべきの通道必ず開けん。汝らその方法講ずべし」であった息子の忠礼と忠厚はこの遺訓従い廃藩置県後米国留学した。忠厚は米国土木工学者として画期的な測量法開発し全米有名になった。 また、忠固の家臣には、慶応3年1867年)に普通選挙による議会政治導入人民平等の原則建白した赤松小三郎がいる。

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