2度目の庶民院議員就任
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「ジョゼフ・アディソン」の記事における「2度目の庶民院議員就任」の解説
1710年にトーリー党が政権を握ると、アディソンも主席政務官を解任されたが、新しく任命された総督の第2代オーモンド公爵ジェームズ・バトラーの好意により、ダブリン城の閑職に留任することができた。同年3月、マームズベリー選挙区(英語版)の補欠選挙でウォートン伯爵の推薦を受けて当選した。ウォートン伯爵が1690年から1715年に死去するまでマームズベリー執事長(High Steward of Malmesbury)を務め、マームズベリーで勢力を有したため、アディソンは1713年と1715年の総選挙でもウォートン伯爵の指名を受けて再選した。1710年3月には絶大な人気を誇り、ジョナサン・スウィフトが「彼が国王に選出されようとしても、断られることはないだろう」(if he had a mind to be chosen king he would hardly be refused)と形容したほどだった。 議会で演説した記録はなく、議会演説に関する逸話としては「庶民院で立ち上がって演説しようとしたとき、『彼を聞け!』(Hear him! Hear him!)と繰り返された野次で恥ずかしくなって、一言も発せずに着席し、以降二度と演説しようとしなかった」というものがある。投票ではホイッグ党の立場を貫き、1711年12月に「スペインなくして講和なし」の動議に賛成票を、1713年6月にフランス通商法案(French commerce bill)への反対票を投じた。 一方、主席政務官の俸給を失い、2人の弟の相次ぐ死去で手に入るはずだった遺産も裁判などにより実際にはほとんどもらえず、アディソンは支出を減らすためにオックスフォード大学でのフェロー職を辞した。この状況は数年のうちに好転し、アディソンは1713年に8,000ポンドを費やしてラグビーのビルトン・ホール(英語版)を購入し、親族エドワード・アディソン(Edward Addison)を庭師として雇った。
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