陸軍除隊後の地域の指導者としての活動
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「藤田清」の記事における「陸軍除隊後の地域の指導者としての活動」の解説
陸軍除隊後、藤田は地元に戻って直ぐの1917年(大正6年)4月には在郷軍人会新治村分会長に就任し、以後、地域の指導者として活動している。在郷軍人会新治村分会長は1919年(大正8年)3月まで務め、1926年(大正15年)3月には2度目の就任をした。 38歳の1931年(昭和6年)には新治青年団の副団長と文芸部長になった。この年は新治青年団が陣容を一新し『新治青年団報』の発行など積極的な活動を始めた年であり、藤田は副団長という役ではあったが、実質的なリーダーとして皆を率いた。新治青年団は「団報」の発行の他、弁論大会や運動競技会を盛んに開催し、また数日かけて県内外を自転車で巡る自転車旅行の企画などユニークな活動を行ったが、それにはリーダーの藤田の影響が大きかったと捉えられている。 1933年(昭和8年)3月、藤田は団長に就任する。しかし5月18日に突如辞表を提出し、慰留されたが翻意せず団長を辞任し、以後青年団活動からは離れた。当時、藤田は地域の農村振興の為に農会改革と産業組合運動に奮闘していたが、その活動が藤田と村の指導者層との間に軋轢を引き起こしている。結局、藤田は挫折し、このことが青年団活動の辞意に至った原因と推測されている。この辞意に至る経緯には良くも悪くも「理想主義者」との評価がされていた藤田の、地域の為に理想の実現に尽くし、敗れた姿が見て取れる。
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