皇帝即位前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:52 UTC 版)
紀元前180年に呂雉が死去すると、呂氏一族は陳平・周勃ら建国の元勲、および高祖の孫である斉王劉襄・朱虚侯劉章による政変で誅滅され、劉恒が新皇帝として擁立されることとなった(呂氏の乱)。 政変を実行した劉襄と劉章兄弟は、劉邦の庶長子の斉悼恵王劉肥の遺児であり、呂氏一族誅滅の功績から劉襄が皇帝に即位し、劉章は斉王に封じられると思われた。しかし呂氏一族という強大な外戚による専横を排した直後であり、強い権力欲を有する外戚を持つ斉王を皇帝に擁立すれば、再び外戚の専横が発生するという危惧が挙がった。そこで没落貴族の末裔で、権力欲が少なく人格者との評判の高い薄氏を生母に持つ劉恒が擁立された。また、劉恒は生存する高祖の遺児の最年長者であり、長幼の順という理由も説得力も有していた。 しかし劉恒の皇帝即位に、代国から反対の声が上がった。高祖とともに戦乱の世を生き抜き、政変を起こして呂氏一族のみならず皇帝まで廃立、殺害した元勲を信用できないというものであった。皇帝即位を求める使者が長安と代国とを往復すること5度に及び、ようやく即位が実現した。即位の際に代国から長安へ上京する際、劉恒の皇帝即位に対する反対派が多くいたが、わずかに数名の側近と6騎の馬車のみで長安に入った。 このような経緯により、即位直後は文帝と元勲との関係も円滑なものでなく、文帝が法制度改革について重臣たちに下問した際も、厭味な内容の上書が行われた。しかし、元勲が政治の舞台から引退するようになると、代王時代以来の臣下を登用し、政権の主導権を確保して、着実に政治改革を推進していくことになった。
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