代王時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:52 UTC 版)
楚漢戦争が終結すると劉邦が皇帝に即位し、異姓の諸侯王が取り潰されていく中、劉恒は趙国に封じられた異母兄の劉如意の後任として代王に封じられた。しかし劉恒は幼少であったため、劉邦の信任を受けた傅寛が丞相(諸侯相)に配され、後見することとなった。劉恒は代王太后(代国の王太后)となった薄氏と母方の叔父の薄昭とともに代国に向かい、そこで成長した。 高祖劉邦の死後、正妻であった呂雉が皇太后として実権を掌握し、劉如意など高祖の庶子を次々と殺害していったが、劉恒はこの難を逃れている。その背景には、劉恒の生母である薄氏が、劉如意の生母の戚夫人などと異なり、劉邦から寵愛されることが少なかったことが考えられる。 異母弟の趙共王劉恢の側室が正室の呂氏(呂后の甥の呂産の娘)により毒殺され、劉恢がその後を追って自害すると、呂后はその後任として劉恒の移封を検討した。劉恢や劉友ら異母弟が呂后により殺害されていることを理解していた劉恒は、代国が匈奴に近いため匈奴侵攻の防衛の重要性を理由とし、呂后に上啓して移封を辞退している(趙王には呂后の甥の呂禄が封じられた)。
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