元勲との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:59 UTC 版)
伊藤と同様、井上馨ともに複雑な関係を持った。もともと中央に大隈を推挙したのは井上であり、留守政府時代に井上は大隈に、「あなたの他に信じて従っていく人はいない、真の友人と思う」と書簡を出すほど親しかった。明治6年4月の政変では井上を見捨てる形となったが、以後も交流は続いている。第二次大隈内閣では元老中で最も大隈を支持したが、任期途中に病没した。大隈は井上のことを「兎角憤りっぽく気難しいため首相に向かない」としながらも、なかなかの粋人であると評している。 大久保利通とは、木戸派時代には対立し、それ以降もむしろ伊藤に近かかった大隈だが、後年の回想では「大苦労を重ね」「建略を用い」「偉人となった」政治家として絶賛している。 西郷隆盛は大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされ、特に明治4年(1871年)の西郷上京の際に書かれた『西郷吉之助意見書』では、名指しこそ避けたものの大隈の政策を「武士のやることではない」と切り捨てた。さらに同年、西郷の推挙で大蔵省入りした安場保和が大隈への弾劾意見書を提出したこと(西郷も大久保もこれには反対したために却下された)によって、大隈の西郷への反感は抜きがたいものになったとされる。大隈は西郷について、尊敬はしていたが、政治家的な能力に欠けるとし、「人情には極めて篤かった」が、政治に関しては任せきりであったと、人格面での評価はしても政治家としては評価していない。 大隈重信は、第一の政治家として木戸孝允を挙げている。最も感心したことを「長州出身なるに拘わらず、薩長の専横を憤ってこれを抑えられた一事」だといい、木戸はつねに「もし二藩の人をして跋扈せしめたならば、幕府の執政と異なったことは無い、既に三百藩を廃して四民平等となしたる以上は、教育を進めて人文を開き、以て立憲国になさなければならぬ」と口にしていたと『大隈伯百話』で述べている。 大隈は、岩倉具視と伊藤博文とで朝の8時から夜の11時頃までそれぞれ4~5升ほど酒を呑んで語り明かしたという談話を残している。『明治の初年に、或る時、朝の八時から岩倉公と伊藤と我輩と三人が飲み始めた、山尾庸三は酒が飲めないから、燗番で酒の燗をして居る、三人で飲み且つ語って、夜の十一時頃迄に、各々四五升も平らげたが、我輩は未だ中々酔わなかった、然るに岩倉も伊藤も弱い者だから酔って喧嘩を始めた、岩倉が「貴様が足軽の癖に生意気なことを言う」と伊藤を叱咤すると、伊藤が「何だ、青公卿に天下の形勢が分かる者か」と罵り返した、双方共に酔っておるものだから、言葉が荒くなったのだ、スルと岩倉が大いに立腹して「参議の一人たる伊藤から、青公卿なるが故に天下の形勢は分からぬと言われては、上御一人に対し奉りて相済まぬから、止むを得ず右大臣を辞する」と言い出した。二人は酔っておるから、こんな事になったのだ、そこで我輩は岩倉に向かい「それは面白い、早速辞表をお書きなさい、不肖ながらこの大隈が、陛下へお取次ぎを致そうと切り出すと、燗番をしていた山尾が、驚いて飛んで来て、マアマアと双方をなだめたことが有る、其の頃から酒も気力も我輩が一番強かった』
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