元北海道炭礦鉄道の小形木造客車
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「北海道炭礦汽船夕張鉄道線」の記事における「元北海道炭礦鉄道の小形木造客車」の解説
いずれも路線開業にあたり、1925年に鉄道省から譲受したもので、台枠まで木製のオープンデッキ付、ストーブ暖房、アメリカのハーラン・アンド・ホーリングウォース製の木鉄合造の台車という仕様であった。夕張鉄道では1926年に連結器位置の変更、空気ブレーキ化改造などを実施、1931年に台枠、連結器、昇降台、雨トイなど、1936年には出入り口の踏段をそれぞれ改修するなどして使用された。また、手ブレーキは残っていたものの形式名から“フ”が外されている。 「北海道炭礦鉄道の客車」も参照 (フ)コロ6→コトク1 もともとは北海道炭礦鉄道の1893年手宮工場製ダブルルーフの1等客車い2で、その後鉄道院フコイ5130形5131→フコロ5670形5671となっていたものを譲受してフコロ6形の6としたものでのちにコロ6に改称された。この時点では全長12395mm、自重8.00t、定員30人。 1927年に特別車に変更され、車内を貴賓や会社重役用に整備してコトク1と改称、全長19895mm、自重9.84t、定員30人となった。しかし、戦後はほとんど使用されず鹿ノ谷駅構内で木工室となっていたが1957年に廃車となった。 手宮の北海道鉄道記念館に保存された北海道炭礦鉄道い1(定山渓鉄道コロ1から復元)の同型車。 (フ)コロハ1、2→コハ1、2 北海道炭礦鉄道の1898年製の2等客車に7および1903年製の2、3等客車にさ71で、いずれも手宮工場製。その後それぞれ鉄道院フコロ5665形5669→フコロハ5760形5760およびフコロハ5980→5981となっていたものを譲受してフコロハ1、2としたが、出自が異なるため形態は異なるものであり、1926年にフコロハ1形とフコロハ2形に形式を分けた。 フコロハ1は屋根がダブルルーフでロングシートの2等室とロング、クロス組合わせの3等室に分かれ、便所もそれぞれに用意されていた。フコロハ2も同様であったが、2等室部分の屋根がダブルルーフ、3等室部分がシングルルーフであるという特徴があった。定員はフコロハ1が2等夏18/冬15、3等夏28冬24人、フコロハ2が2等夏16/冬14、3等夏30冬26人であった。 1935年には2等の廃止によりコハ1、2となり、1936年に出入口に扉を設置、1939年には旧2、3等室間の仕切を撤去して座席をクロスとロングの組合せとする改造を行い、全長13118mm(コハ1)/12991mm(コハ2)、自重12.0t(コハ1)/12.44(コハ2)、定員夏62人/冬58人となった。 2両とも1938年から角田炭砿専用鉄道に貸出され、コハ1はその後ハ60と交代で1940年貸出、1941年譲渡で夕張砿専用鉄道に移り、コハ2は角田炭砿専用鉄道の旅客輸送が電車となった際に夕張鉄道に戻った後、1949年に廃車となり、車体が鹿ノ谷駅構内で物置として使用された。 (フ)コハ10、11 北海道炭礦鉄道の1902年手宮工場製の3等客車さ63および1904年岩見沢工場製の3等客車さ69で、その後鉄道院フコハ7970形7970、7976となっていたものを譲受してフコハ10、11となった。 屋根はシングルルーフ、室内は座席がクロスとロングの組合せで便所つきであり、全長12991mm、自重9.42t、定員夏62人/冬58人であった。 コハ10は1941年から旅客列車が電車化されるまで角田炭砿専用鉄道に貸出された後、1949年に廃車となり、車体が鹿ノ谷構内で物置となった。一方コハ11は1936年に角田炭砿専用鉄道に貸出されたあと、1938年に廃車となり継立駅付近で倉庫となった。 (フ)コハ12 北海道炭礦鉄道の3等客車さ58で、手宮工場製で1897年の製造と推定される。鉄道院ではフコフ7959形7959となっていたものを譲受してフコハ12となった。なお、当初はフコハ10形であったが1926年にフコハ12形に形式が分けられた。 屋根はシングルルーフ、室内の座席はクロスシート、便所付で全長11570mmと他の車両より短く、自重7.99t、定員夏56人/冬52人(鉄道省時代)であった。 1934年に角田炭砿専用鉄道に貸出され、その後1938年に廃車され、車体が継立駅付近で倉庫となった。
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