皇帝即位と梁犢の乱
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349年1月、石虎は病が一時的に快方に向かうと、皇帝位に即いて領内に大赦を下した。また、太寧と改元し、諸子をみな王に進封し、百官を一等増位した。尚書張良を右僕射に任じた。 だが、東宮の高力(石宣は力の強い士を選んで東宮の衛士として選抜し、これを高力と号した)1万人余りは石宣の犯した罪により大赦の対象から外され、涼州の辺境に流される事となった。一行が雍城へ到達すると、雍州刺史張茂に彼らを送還するよう勅命が下ったが、張茂は彼らの馬を奪い取ると、鹿車(手押しの一輪車)を与えて歩いて牽かせ、戍所(辺境の拠点)へ食糧を送るよう命じた。これにより衛士はみな怨みを抱いたので、高力督梁犢はこれを利用して乱を起こし東へ帰ろうと考え、胡人の頡独鹿微に命じてその旨を衛士に告げさせた。この計画を聞くとみな跳び上がりながら手を叩いて大声で叫び、喜んで梁犢に従った。梁犢は自らを東晋の征東大将軍であると自称すると、衛士を率いて下弁へ侵攻し、これを攻め落とした。そして、張茂へ迫って大都督・大司馬に担ぎ上げると、軺車に乗せた。安西将軍劉寧はこの反乱を知ると、安定から出撃して迎え撃ったが、梁犢は返り討ちにした。 高力はみな力が強く射術に長けており、1人で10人以上に匹敵した。武器や防具は持っていなかったが、民から斧を奪い取ると、1丈にもなる柄を装着し、戦神の如く戦った。向かうところ全ての敵は総崩れとなり、守備兵もみな寝返って梁犢に従った。 梁犢は郡県を攻め落として長吏や二千石(郡太守)を殺しながら東へ進軍を続け、長安へ到達する頃にはその勢力は10万人にも及んだ。長安を鎮守する楽平王石苞は精鋭を全て投入してこれを迎え撃したが、梁犢は一戦でこれを撃破した。遂に長安を突破すると、潼関から東へ出て洛陽目掛けて進撃した。 石虎は司空李農を大都督・行大将軍事に任じ、統衛将軍張賀度・征西将軍張良・征虜将軍石閔を始め歩騎10万を与えて迎撃を命じた。李農は新安に進んで梁犢を撃ったが、梁犢はこれに大勝した。さらに洛陽へ侵攻すると、再び李農を破り、成皋まで退却させた。さらに東へ進むと、遂に滎陽・陳留といった諸郡を侵犯するようになった。石虎はこれを大いに恐れ、早馬を出して燕王石斌を大都督・中外諸軍事に任じ、統冠将軍姚弋仲・車騎将軍蒲洪・征虜将軍石閔と共に討伐を命じた。石斌らは出撃すると、滎陽において梁犢を撃破した。梁犢の首級を挙げ、その余党を尽く滅ぼすと、軍を帰還させた。 東晋の将軍王龕が沛郡へ侵攻し、城は陥落した。 その後、始平出身の馬勗もまた兵を集め、洛氏の葛谷において将軍を自称した。石苞はこれの討伐に向かうと、尽くを攻め滅ぼして三千家余りを誅した。
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