皇帝侍医と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 16:25 UTC 版)
「アンドレアス・ヴェサリウス」の記事における「皇帝侍医と死」の解説
出版後まもなく、ヴェサリウスは皇帝侍医として皇帝カール5世の宮廷に招待された。彼は、パドヴァで離任する予定であるのをヴェネツィアの上院に知らせた。メディチ家の公爵コジモ1世が、ピサの拡張大学に移るよう促したが、ヴェサリウスはそれを拒否した。 ヴェサリウスは宮廷を選んだ。そこでは、彼を床屋として馬鹿にする他の医師と対応しなければならなかった(当時の医術は内科的処方のみを指し、外科的な処方は床屋が行っていた)。 その後12年に渡ってヴェサリウスは宮廷と共に旅をし、戦いや馬上槍試合での怪我の治療や検死解剖や外科手術をし、そして特定の医学的な質問を扱う私的な手紙を書いた。この数年の間にRadicis Chynaeという薬草の特性についての短文も書いたが、それは彼が使用するのを擁護するのはもちろん自分の解剖学的な発見を擁護するものである。これは、ヴェサリウスの仕事に対して、皇帝によって彼が罰せられるように求める攻撃の機会を引き出した。1551年、カール5世はサラマンカでヴェサリウスの手法の宗教的含意を調査する審理を委任した。ヴェサリウスの仕事は評議会によって許可されたが、攻撃は続いた。4年後に彼を中傷する者の一人が、人間の体そのものがガレノスが研究した時から変化したと主張する論説を出版した。 カール5世が退位した後も、その息子のフェリペ2世の厚恩でヴェサリウスは宮廷生活を続けた。それは生涯に渡る年金と宮中伯count palatineとなるというものだった。1555年に“De Corporis”の改訂版を出版した。 1559年6月30日、アンリ2世の娘エリザベート・ド・ヴァロワとスペイン王フェリペ2世の結婚でモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュとの馬上槍試合でアンリ2世は槍に右目を貫かれた。この治療にサヴォワ公は、フェリペ2世にヴェサリウスの派遣を依頼、7月3日に到着し治療に参加するもアンリ2世は7月10日に死亡した。 1564年にヴェサリウスは妻と娘と3人でブリュッセルに向かうも、家族と別れ1人で聖地巡礼の旅に出た。ジェームス・マラテスタ (James Malatesta) 指揮下のヴェネツィア艦隊と共にキプロスを経て航行した。エルサレムに着いたとき、ヴェサリウスはヴェネツィアの議会から、彼の友で弟子のファロピウスの死によって席が空いたパドヴァの教授の座に再び着くことを要求する書信を受け取った。 数日間のイオニア海での逆風で苦しめられたのち、ヴェサリウスはザキントス島で座礁した。ここで彼は間もなく病気で死んだが、善意の人が葬儀代を払わなければ遺体は打ち捨てられるところであった。死亡した時49歳であった。 ヴェサリウスの巡礼の旅は宗教裁判のプレッシャーのためだと言われていた。今日ではこれは根拠がなく、現代の伝記作者によって却下されている。このストーリーはde Saxe としてカール5世とプリンスオブオレンジの元で仕えていたヒューバート・ランゲ (Hubert Languet) によって広げられた。彼は、ヴェサリウスが見つけられたときには、まだ心臓が動いていたスペインの貴族の検死を行ったことが、彼に死刑宣告した宗教裁判に導いた、と1565年に主張した。そして、フェリペ2世によってその判決が聖地巡礼へと変えられた、という事になっていた。その話は何年も経って、何度も再浮上して最近まで信じられていた。
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