皇帝即位と国家の整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:48 UTC 版)
308年7月、劉淵は河東へ進出して太守路述を討ち取り、ここを拠点と定めた。次いで平陽へも攻め入ると、太守宋抽は郡を捨てて逃走した。続けざまに蒲坂を陥落させ、蒲子へ進出すると、これを都とした。これにより河東郡・平陽郡に属する県の砦は全て劉淵の下に帰属し、上郡の四部鮮卑である陸逐延・氐族酋長の単徴らが相次いで劉淵に降り、劉淵は全員に官爵を与えた。 10月、劉淵は皇帝に即位すると、領内に大赦を下して年号を永鳳と改元した。11月、長男の劉和を大将軍に、三男の劉聡を車騎大将軍に、族子の劉曜を龍驤大将軍に任じた。 12月、大将軍劉和を大司馬・梁王とし、尚書令劉歓楽を大司徒・陳留王とし、御史大夫呼延翼を大司空・雁門郡公とした。他にも宗室はみな郡県王に封じ、異姓でも功績が大きい者はそれぞれ郡県公侯に封じた。 309年1月、太史令宣于修之からの進言を受け、平陽に遷都した。 この時期、ある民が汾水の中から玉璽を拾った。その玉璽には『有新保之(新朝がこれを保つ)』と書かれており、おそらく王莽の時代の物と思われた。拾った人物はその玉璽に『淵海光』の3字を追加すると、これを劉淵のもとへ送り届けた。劉淵はこの玉璽を吉兆であると喜び、大赦を下して河瑞と改元した。 5月、劉裕を斉王に封じ、劉隆を魯王に封じた。12月、陳留王劉歓楽を太傅に、楚王劉聡を大司徒に、江都王劉延年を大司空に、劉洋を大司馬にそれぞれ任じ、領内に大赦を下した。 310年1月、妻の単氏を皇后に立て、劉和を皇太子とし、大赦を下した。また、劉乂を北海王に封じ、長楽王劉洋を大司馬に任じた。
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