皇帝側の巻き返しからサレルノでの死まで
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「グレゴリウス7世 (ローマ教皇)」の記事における「皇帝側の巻き返しからサレルノでの死まで」の解説
ドイツ諸侯にとっては、ハインリヒ4世が破門されるかされないかということは追い落としのための単なる口実に過ぎなかった。破門が取り消された後も諸侯はハインリヒ4世の追い落とし政策を推し進め、1077年3月にシュヴァーベン大公ルドルフを新しいローマ王(対立王)として立てた。この新旧のローマ王の争いにおいて教皇自身は中立を標榜し、むしろ事態の打開策を模索した。対立するドイツ諸侯たちは相手に対して優位にたとうと教皇の取り込みをはかった。しかし、中立者に起こりがちなことだが、結局教皇は両陣営の信頼を失う結果となった。最終的に1080年1月27日のフラックハイムの戦いでルドルフが勝利を収めたことで教皇はルドルフの方に軍配を上げた。ザクセン公の圧力とフラックハイムの戦いの勝利が実像以上に誇張して報告されたことで教皇は中立策を放棄して、1080年3月7日、再びハインリヒ4世の破門と廃位を宣言した。 しかし前回の破門と違い、今回は諸侯と民衆が教皇の問責を支持せずむしろ不正なものであると考えた。さらに教皇が支持したルドルフが1080年10月に亡くなったことで状況は悪化した。ルドルフに代わって1081年8月にザルム伯ヘルマンが候補者にあがったが、彼にはドイツの諸侯を抑えるだけの力がなかった。数年来、力を蓄え、経験をつんできたハインリヒ4世は満を持して1080年6月16日にブリクセンに教会会議を召集して教皇の廃位を宣言させ、ラヴェンナの大司教グイベルトを新しい教皇の候補に指名した。 1081年、ハインリヒ4世はイタリアに侵入し、ローマを囲んだ。教皇のもとにいた13人の枢機卿達は逃亡し、1084年3月24日、グイベルトがクレメンス3世として教皇位についた。ハインリヒ4世は改めてクレメンス3世から王冠を受けた。教皇グレゴリウス7世はサンタンジェロ城に追い込まれたが、ロベルト・イル・グイスカルドによって救出され、ローマを逃れた。ローマを離れた教皇はモンテ・カッシーノ、サレルノへと移り、1085年5月25日に同地で没した。
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