皇帝側の巻き返しからサレルノでの死までとは? わかりやすく解説

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皇帝側の巻き返しからサレルノでの死まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 06:38 UTC 版)

グレゴリウス7世 (ローマ教皇)」の記事における「皇帝側の巻き返しからサレルノでの死まで」の解説

ドイツ諸侯にとっては、ハインリヒ4世破門されかされないということは追い落としのための単なる口実に過ぎなかった。破門取り消された後も諸侯ハインリヒ4世追い落とし政策推し進め1077年3月シュヴァーベン大公ルドルフ新しローマ王対立王)として立てた。この新旧ローマ王争いにおいて教皇自身中立標榜し、むしろ事態の打開策を模索した対立するドイツ諸侯たちは相手に対して優位にたとうと教皇取り込みはかった。しかし、中立者に起こりがちなことだが、結局教皇は両陣営信頼を失う結果となった最終的に1080年1月27日のフラックハイムの戦いでルドルフ勝利を収めたことで教皇ルドルフ方に軍配上げたザクセン公圧力とフラックハイムの戦い勝利実像以上に誇張して報告されたことで教皇中立策を放棄して1080年3月7日、再びハインリヒ4世破門廃位宣言した。 しかし前回破門違い今回諸侯民衆教皇問責支持せずむしろ不正なのである考えた。さらに教皇支持したルドルフ1080年10月亡くなったことで状況悪化したルドルフに代わって1081年8月にザルム伯ヘルマン候補者にあがったが、彼にドイツの諸侯抑えるだけの力がなかった。数年来、力を蓄え経験をつんできたハインリヒ4世満を持して1080年6月16日ブリクセン教会会議召集し教皇廃位宣言させ、ラヴェンナ大司教グイベルトを新し教皇候補指名した1081年ハインリヒ4世イタリア侵入しローマ囲んだ教皇のもとにいた13人の枢機卿達は逃亡し1084年3月24日、グイベルトがクレメンス3世として教皇についたハインリヒ4世改めクレメンス3世から王冠受けた教皇グレゴリウス7世サンタンジェロ城追い込まれたが、ロベルト・イル・グイスカルドによって救出されローマ逃れたローマ離れた教皇モンテ・カッシーノサレルノへと移り1085年5月25日同地没した

※この「皇帝側の巻き返しからサレルノでの死まで」の解説は、「グレゴリウス7世 (ローマ教皇)」の解説の一部です。
「皇帝側の巻き返しからサレルノでの死まで」を含む「グレゴリウス7世 (ローマ教皇)」の記事については、「グレゴリウス7世 (ローマ教皇)」の概要を参照ください。

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