皇帝即位からローマ還御までとは? わかりやすく解説

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皇帝即位からローマ還御まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:16 UTC 版)

ハドリアヌス」の記事における「皇帝即位からローマ還御まで」の解説

ハドリアヌスローマで生まれた原籍があるヒスパニア・バエティカイタリカ生まれたとの説もある)。トラヤヌス従兄弟の子である。 93年(または94年)、二十人委員の職に就き民生関係の修行をした。ついで、パンノニア、モエシア・インフェリオル及びゲルマニア・スペリオル属州で高級軍団将校務める。その後101年元首財務官就任トラヤヌス秘書務める。皇帝演説元老院代読したのは、この時のことである。105年護民官就任、ついで法務官プラエトル)に任命された。その後軍団司令官として第2次ダキア戦争従軍、この戦争実績重ね107年からは属州長官として下部パンノニア治めた。この属州長官のときの功績により、108年には数か月間、補充執政官務めた114年から開始されパルティア戦争では軍団司令官任命され参謀本部内でトラヤヌス補佐役として優れた手腕発揮した117年トラヤヌスは、ハドリアヌス属州シリア総督親任した。病を得トラヤヌスは、ハドリアヌスパルティア遠征軍の総司令官親任し、ローマへ還御の途につく。しかし、トラヤヌスキリキア地方セリヌス不帰の人となった崩御の床でトラヤヌスハドリアヌス養子勅定したが、これは皇后プロティナの支持あったからだといわれる8月9日アンティオキア滞在中のハドリアヌストラヤヌス養子となった旨の書簡が届く。その2日後、トラヤヌス崩御報ずる書簡届いた。このとき、ハドリアヌス配下軍隊から「インペラトル皇帝)」と歓呼された。公式にはこの日が「即位の日」とされるハドリアヌスセリヌス行幸し、弔問したあと、再びシリアへ戻る。その際東部国境安定化のため、属州メソポタミアアルメニア放棄勅定した。その処理が終わると、蛮族侵入によって不穏な情勢にあったドナウ川流域行幸し、属州ダキア属州モエシア再編成し翌年7月、ようやくローマへ還御した。 ハドリアヌス帝位継承については、元老院議員一部から異論が出るおそれがあった。そのためであろう、かつてハドリアヌス後見人であった腹心近衛長官アッティアヌスは予防的措置として、「元老院命令により」、執政官経験した有力な元老院議員4名を殺害させた(ハドリアヌス勅命であったとする研究者もいる)。

※この「皇帝即位からローマ還御まで」の解説は、「ハドリアヌス」の解説の一部です。
「皇帝即位からローマ還御まで」を含む「ハドリアヌス」の記事については、「ハドリアヌス」の概要を参照ください。

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