神殿の再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 17:23 UTC 版)
聖書の記述に基くと、バビロン捕囚から帰還した後、70年前のユダ王国の滅亡後荒廃していたユダヤ属州(英語版)を立て直すための準備はすぐに行われた。帰還者たちは42,360人の団体を作り、ユーフラテスの川岸からエルサレムまでの長く陰惨な4カ月の旅を終えた。彼らは強い宗教的な衝動によって彼らの全ての出来事で活気に満ちており、したがって彼らのはじめの懸念の1つは、彼らの滅ぼされた神殿を再建し、コルバン(英語版)として知られる生贄の儀式を復活させることによって古来からの崇拝の建物を復旧させることだった。 総督であったゼルバベルの勧誘において、61,000ダリクの金と5,000ミナの銀および祭司の衣服100着が神殿再建の工事の為に寄付された。彼らは、初めに建設し神への捧げものを奉じていた第一神殿が立っていたのと同じ位置に第二神殿を築こうとし、古い神殿の場所を占有していた瓦礫を片付けた。そして、紀元前535年の建設を開始してから2年2か月目に、第二神殿の土台の建設が始まった。この大きな運動において広い関心が感じられたが、傍観者たちには複雑な心境で見られていた。 サマリア人はこの仕事において協力の提案を行った。しかし、ゼルバベルおよび宗教的指導者達は、ユダヤ人自身の手によって協力なしに神殿を作り上げなければならないと考え、協力提案の全てを断った。すぐにユダヤ人に関する悪評が広まった。エズラ記の第4章5節によると、サマリア人は彼らの目標を妨げようとし、その仕事が続行不能となった結果エクバタナおよびスーサへと使者を送った。 その7年後、ユダヤ人の祖国への帰還と神殿の再建を認めたキュロス2世が死去し、彼の息子のカンビュセス2世が跡を継いだ。彼の死によって「偽スメルディス」は約7から8か月の間王位を占有し、その後紀元前522年にダレイオス1世がペルシャの王となった。ダレイオス1世の統治2年目に神殿を再建する仕事は再開され、預言者ハガイとゼカリヤによる真剣な助言と警告による激励のもとで完成に持ち込んだ。捕囚から帰還してから20年以上後の紀元前516年の春には奉献の準備ができていた。神殿はダレイオス1世の統治6年目のアダルの月(英語版)の3日に完成したが、それはユダヤがもはや独立した民族ではなく外国の影響を受けているということを明白にした。ハガイ書には、第二神殿の栄光が第一神殿のそれよりも大きくなるという預言が含まれている。 聖書の記述によると、聖遺物の一部は第一神殿の破壊の後失われ、第二神殿では以下の物品が欠如していた。 契約の箱(モーセの十戒の書かれた石版、マナの壷、アロンの杖を含む) ウリムとトンミム(英語版)(さばきの胸当(英語版)を含む) 聖油(英語版) 神聖な炎 第二神殿において至聖所 (Kodesh Hakodashim)は、第一神殿のように壁で切り離されるのではなくカーテンで仕切られた。しかし、ユダヤ神殿(英語版)のように第二神殿には以下のものが含まれていた。 en:Hekhalのためのメノーラー(金の燭台) 供えのパン(英語版)のテーブル 金の香炉を含む金の香壇 第二神殿もまた、バビロニア人に取られたがキュロス2世によって回復された多くの金の祭具を含む。しかし、ユダヤ人の伝統によれば第二神殿には、はじめに存在していたシェキナ(英語版)および聖霊 (ユダヤ教)(英語版)が不足していた。
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