伝統的「ウェルギリウス」像の再考とは? わかりやすく解説

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伝統的「ウェルギリウス」像の再考

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 01:31 UTC 版)

ウェルギリウス」の記事における「伝統的「ウェルギリウス」像の再考」の解説

ウェルギリウス伝記的事項伝え同時代史料としては、彼の友人ルキウス・ウアリウス・ルフス(ラテン語版フランス語版)が書いた伝記存在したが、4世紀までには散逸してしまった。しかし、1世紀書かれ書物例えば、ウアレリウス(英語版)のウェルギリウス作品注釈スエトニウス著したウェルギリウス伝』などに引用されるかたちで一部残ったスエトニウスの『ウェルギリウス伝』には4世紀に、ウェルギリウス作品重要な注釈残した批評家として知られるマウルス・セルウィウス・ホノラトゥスアエリウス・ドナトゥス2人による注釈付加された。ホノラトゥスとドナトゥス注釈ウェルギリウス伝記的事項に関して数多く真実伝えていることに疑いはない。しかしながらウェルギリウス詩作品歌われ内容から現実起きたことの寓意見出すといった推測恣意的な解釈もあることが指摘されている。近代的な研究手法確立以前書かれウェルギリウス伝はみな、このようなホノラトゥスとドナトゥス注釈根拠にしているため、そこに描写され生涯記述のすべてを鵜呑みにすることはできない以上に述べたような問題点があることは一旦措いて伝統的なウェルギリウスに基づき詩人生涯記述試みるならば、ウェルギリウスクラッススポンペイウス執政官務めた年(紀元前70年)にガリア・キサルピナアンデス生まれたアンデスのあった場所は、現代イタリアロンバルディア州マントヴァ近くにあるコムーネヴィルジーリオ中心部から少し離れたところに比定されている。なお、このコムーネの名称「ヴィルジーリオ」はウェルギリウス生誕地という誉れを示すものであるまた、伝統的な伝記記述によればウェルギリウス生まれついた家門は特別富貴でもなく中流であったとされる他方現代古典学においては詩人出自上流階級にあった考えることが多い。母親裕福な商人の娘、ポッラ・マジオ(Polla Magio)であり、父親のノーメンとコグノーメン息子と同じウェルギリウス・マロー(Vergilius Maro)であった父親プラエノーメン伝わっていない:1191。標準的な伝記記述によれば父親は小地主であり、養蜂農業と畜産生計立て注意深く自分仕事取り組んでいた人物とされる伝承によると、「クラッススポンペイウス新し執政官であったとき、ティトゥス・ルクレティウス・カルス世を去った日と同じ日付に、幼い男の子純白トーガを身にまとった」と表現される(「白いトーガ身にまとう」は通過儀礼意味する成句)。このように伝承上はウェルギリウスと『物の本質についてフランス語版)』の作者ルクレティウスとの間になにかしら因縁があることが暗示されてきた。しかしながらこのようなサンボリスムにもかかわらずウェルギリウス作品にはルクレティウス影響よりもむしろ、ガイウス・ウァレリウス・カトゥッルス影響のほうが強く認められるカトゥッルスウェルギリウス生誕地に近いヴェローナ生まれた恋愛エレギーア詩人であるが、ウェルギリウス彼のことを個人的に知っていたと想像する余地充分にあると言われている。その根拠は、『牧歌』の中でウェルギリウス当代の他の詩人たちに敬意込めて謝辞を述べる箇所で、カトゥッルスのいる文学サークル属したアエミリウス・マケル(フランス語版)、ガイウス・ヘルウィウス・ツィンナ(フランス語版)や、ルキウス・ウアリウス・ルフス(ラテン語版フランス語版)(のちのアエネーイス校訂者)、クィントゥス・ホラティウス・フラックスなどに言及していると読めることである。カトゥッルスとの親交については不明な点が多いが、ホラティウスとの親交については確実に深いものがあったことが確認でき、ホラティウスウェルギリウスのことを「わたしの魂の半分」(animae dimidium meae)と呼びかけるほどであったホラティウスによればウェルギリウスはのちに偉大な批評家となるプブリウス・クィンクティリウス・ウァルスや、ラテン文芸におけるエレギーア詩の地位確立した詩人ガイウス・コルネリウス・ガッルス(フランス語版)とも、すぐに親友になったウェルギリウス最初にクレモナ次いでミラノローマ遊学し最後にギリシア文化の町ナポリ行き文学哲学法律医学マテマティカといった、さまざまな分野学問深く学んだナポリにはエピクロス派シロン英語版)やガダラのピロデモスといったレートリケー修辞術)やギリシア哲学通じた当代随一雄弁家哲学者がおり、ウェルギリウス彼等講義受けたウェルギリウスは、20年続いた内乱の時代cf. 内乱の一世紀)にガイウス・アシニウス・ポッリオの知己得たことが確実視されている。ポッリオは「新詩派(フランス語版)」の詩人一人としてカトゥッルス文学サークル属す文学者であると同時に政治上重要な人物であり軍の司令官でもあった。過去オクタウィアヌスピリッポイ戦い(前42年)で勝利を収めたその翌日カエサル派のレギオンへの報酬とするためイタリア半島大量土地収用した際、ポッリオはキサルピナにおいて複数レギオン指揮した。のちにオクタウィアヌス対抗する者たちが挙兵した際は、マルクス・アントニウス味方した。この共和政ローマ最後内戦フランス語版)ではオクタウィアヌス派が優勢になった。『牧歌』第9巻歌われ内容解釈したところによると、おそらくはウェルギリウスの父の所領没収され地所所有する権利失われる同時にそこで暮らしていくこともできなくなったとみられる伝承によると、ウェルギリウス『アエネーイス』執筆するため、3年かけて小アジアギリシア旅したその際メガラ近く熱中症罹って取材の旅の中断余儀なくされ、紀元前19年ブリンディジ戻ってきたときは瀕死の状態であったという。ウェルギリウス亡くなるとき『アエネーイス』未完に終わることになり、詩人友人のウアリウス(ラテン語版フランス語版)とプロティウス・トゥッカ(フランス語版)を遺言の執行者に指名し不完全な『アエネーイス』焼き捨てほしいと頼んだ。しかし皇帝アウグストゥスがそれに反対し、ウアリウスに作品出版させた。 ウェルギリウス火葬され遺灰生前望みに従ってナポリ湾面した町クリュプタ・ネアポリタナに運ばれ、そこに埋葬された。この町は現在のポッツォーリにあたると比定されており、「ウェルギリウスの墓」という伝説のある大きな廃墟がある。廃墟にはウェルギリウス生涯要約をエレギーア韻律で歌うエピタフがある。このエピタフウェルギリウス亡くなってから相当の時間経ってから作られたものと推定されている。

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