伝統的「ウェルギリウス」像の再考
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「ウェルギリウス」の記事における「伝統的「ウェルギリウス」像の再考」の解説
ウェルギリウスの伝記的事項を伝える同時代史料としては、彼の友人ルキウス・ウアリウス・ルフス(ラテン語版、フランス語版)が書いた伝記が存在したが、4世紀までには散逸してしまった。しかし、1世紀に書かれた書物、例えば、ウアレリウス(英語版)のウェルギリウス作品の注釈やスエトニウスが著した『ウェルギリウス伝』などに引用されるかたちで一部が残った。スエトニウスの『ウェルギリウス伝』には4世紀に、ウェルギリウス作品に重要な注釈を残した批評家として知られるマウルス・セルウィウス・ホノラトゥスとアエリウス・ドナトゥスの2人による注釈が付加された。ホノラトゥスとドナトゥスの注釈がウェルギリウスの伝記的事項に関して数多くの真実を伝えていることに疑いはない。しかしながら、ウェルギリウスの詩作品に歌われた内容から現実に起きたことの寓意を見出すといった推測や恣意的な解釈もあることが指摘されている。近代的な研究手法の確立以前に書かれたウェルギリウス伝はみな、このようなホノラトゥスとドナトゥスの注釈を根拠にしているため、そこに描写された生涯の記述のすべてを鵜呑みにすることはできない。 以上に述べたような問題点があることは一旦措いて、伝統的なウェルギリウス伝に基づき、詩人の生涯の記述を試みるならば、ウェルギリウスはクラッススとポンペイウスが執政官を務めた年(紀元前70年)にガリア・キサルピナのアンデス村に生まれた。アンデス村のあった場所は、現代イタリアのロンバルディア州マントヴァ近くにあるコムーネ、ヴィルジーリオの中心部から少し離れたところに比定されている。なお、このコムーネの名称「ヴィルジーリオ」はウェルギリウスを生誕地という誉れを示すものである。また、伝統的な伝記記述によれば、ウェルギリウスの生まれついた家門は特別富貴でもなく中流であったとされる。他方で現代の古典学においては、詩人の出自が上流階級にあったと考えることが多い。母親は裕福な商人の娘、ポッラ・マジオ(Polla Magio)であり、父親のノーメンとコグノーメンは息子と同じウェルギリウス・マロー(Vergilius Maro)であった。父親のプラエノーメンは伝わっていない:1191。標準的な伝記記述によれば、父親は小地主であり、養蜂と農業と畜産で生計を立て、注意深く自分の仕事に取り組んでいた人物とされる。 伝承によると、「クラッススとポンペイウスが新しい執政官であったとき、ティトゥス・ルクレティウス・カルスが世を去った日と同じ日付に、幼い男の子が純白のトーガを身にまとった」と表現される(「白いトーガを身にまとう」は通過儀礼を意味する成句)。このように伝承上はウェルギリウスと『物の本質について(フランス語版)』の作者ルクレティウスとの間になにかしらの因縁があることが暗示されてきた。しかしながら、このようなサンボリスムにもかかわらず、ウェルギリウスの作品にはルクレティウスの影響よりもむしろ、ガイウス・ウァレリウス・カトゥッルスの影響のほうが強く認められる。カトゥッルスはウェルギリウスの生誕地に近いヴェローナに生まれた恋愛エレギーア詩人であるが、ウェルギリウスが彼のことを個人的に知っていたと想像する余地は充分にあると言われている。その根拠は、『牧歌』の中でウェルギリウスが当代の他の詩人たちに敬意を込めて謝辞を述べる箇所で、カトゥッルスのいる文学サークルに属したアエミリウス・マケル(フランス語版)、ガイウス・ヘルウィウス・ツィンナ(フランス語版)や、ルキウス・ウアリウス・ルフス(ラテン語版、フランス語版)(のちのアエネーイスの校訂者)、クィントゥス・ホラティウス・フラックスなどに言及していると読めることである。カトゥッルスとの親交については不明な点が多いが、ホラティウスとの親交については確実に深いものがあったことが確認でき、ホラティウスはウェルギリウスのことを「わたしの魂の半分」(animae dimidium meae)と呼びかけるほどであった。 ホラティウスによれば、ウェルギリウスはのちに偉大な批評家となるプブリウス・クィンクティリウス・ウァルスや、ラテン文芸におけるエレギーア詩の地位を確立した詩人ガイウス・コルネリウス・ガッルス(フランス語版)とも、すぐに親友になった。ウェルギリウスは最初にクレモナ、次いでミラノ、ローマに遊学し、最後にギリシア文化の町ナポリへ行き、文学、哲学、法律、医学、マテマティカといった、さまざまな分野の学問を深く学んだ。ナポリにはエピクロス派のシロン(英語版)やガダラのピロデモスといったレートリケー(修辞術)やギリシア哲学に通じた、当代随一の雄弁家、哲学者がおり、ウェルギリウスは彼等の講義を受けた。 ウェルギリウスは、20年続いた内乱の時代(cf. 内乱の一世紀)にガイウス・アシニウス・ポッリオの知己を得たことが確実視されている。ポッリオは「新詩派(フランス語版)」の詩人の一人としてカトゥッルスの文学サークルに属する文学者であると同時に、政治上重要な人物であり軍の司令官でもあった。過去にオクタウィアヌスがピリッポイの戦い(前42年)で勝利を収めたその翌日、カエサル派のレギオンへの報酬とするためイタリア半島の大量の土地を収用した際、ポッリオはキサルピナにおいて複数のレギオンを指揮した。のちにオクタウィアヌスに対抗する者たちが挙兵した際は、マルクス・アントニウスに味方した。この共和政ローマ最後の内戦(フランス語版)ではオクタウィアヌス派が優勢になった。『牧歌』第9巻に歌われた内容を解釈したところによると、おそらくは、ウェルギリウスの父の所領は没収され、地所を所有する権利は失われると同時にそこで暮らしていくこともできなくなったとみられる。 伝承によると、ウェルギリウスは『アエネーイス』を執筆するため、3年かけて小アジアとギリシアを旅した。その際、メガラの近くで熱中症に罹って取材の旅の中断を余儀なくされ、紀元前19年にブリンディジに戻ってきたときは瀕死の状態であったという。ウェルギリウスが亡くなるとき『アエネーイス』は未完に終わることになり、詩人は友人のウアリウス(ラテン語版、フランス語版)とプロティウス・トゥッカ(フランス語版)を遺言の執行者に指名し、不完全な『アエネーイス』を焼き捨ててほしいと頼んだ。しかし皇帝アウグストゥスがそれに反対し、ウアリウスに作品を出版させた。 ウェルギリウスは火葬され、遺灰は生前の望みに従ってナポリ湾に面した町クリュプタ・ネアポリタナに運ばれ、そこに埋葬された。この町は現在のポッツォーリにあたると比定されており、「ウェルギリウスの墓」という伝説のある大きな廃墟がある。廃墟にはウェルギリウスの生涯の要約をエレギーア韻律で歌うエピタフがある。このエピタフはウェルギリウスが亡くなってから相当の時間が経ってから作られたものと推定されている。
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