突厥可汗国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:52 UTC 版)
詳細は「突厥」を参照 詳細は「東突厥」を参照 詳細は「西突厥」を参照 突厥はもともと柔然に従属する鍛鉄奴隷であったが、その酋長である土門が伊利可汗(イリグ・カガン、在位:552年 - 553年)と号して柔然から独立し、突厥可汗国を建てる。木汗可汗(ムカン・カガン、在位:553年 - 572年)の代には柔然とエフタルを滅ぼして最大版図となり、他鉢可汗(タトパル・カガン、在位:572年 - 581年)の代にはソグド文字で石碑を建て、仏教を導入して伽藍を建てるなど、軍事面・文化面ともに強盛となった。しかし582年、内紛によって突厥が東西に分裂し、東突厥・西突厥が成立する。7世紀に入ると、モンゴル高原を中心とする東突厥は中国の隋に侵入して唐の隋打倒に協力した。隋が滅亡して唐が建国されても東突厥は中国への侵入・略奪をやめなかったが、630年、太宗によって行われた大規模な東突厥征討により、頡利可汗(イリグ・カガン、在位:620年 - 630年)が捕えられ、東突厥は唐の羈縻支配を受ける。この間のモンゴル高原は薛延陀や回紇といった鉄勒諸部が勢力を伸ばした。682年、阿史那骨咄禄(アシナ・クテュルク)がイルティリシュ・カガン(在位:682年 - 690年頃)と号して唐の羈縻支配を脱し、独立を果たす(突厥第二可汗国)。阿史那默啜(カプガン・カガン、在位:690年頃 - 716年)の代には最盛期を迎え、毘伽可汗(ビルゲ・カガン、在位:716年 - 734年)の代には固有の文字である突厥文字をつくり、自らの文字で自らの言語を記し、数々の突厥碑文を残した。毘伽可汗の死後、東突厥で内紛が相次いだため、この衰えに乗じた回紇(ウイグル)・葛邏禄(カルルク)・抜悉蜜(バシュミル)の3部族によって最後の可汗が殺され、東突厥は滅んだ。
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