突厥征伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 05:49 UTC 版)
貞観3年(629年)、李世民が帝位を継ぐと、唐の北辺を脅かす突厥に対抗するために、5万の兵とともに李靖を派遣した。李靖は突厥の状況を素早く把握すると、配下の張公謹に軍団の指揮を預け、自らは騎兵3千を率いて雪に埋もれた突厥の陣地を襲撃した。突厥の頡利可汗は李靖の英名を知っていたので、その突然の出現に色を失い、陣を捨てて撤退した。さらに李靖は頡利可汗の配下の康蘇密の元に使者を送って離間策を用い、さしたる損害もなく康蘇密を降伏させることにも成功する。頡利可汗はこれによって更に多くの領土を放棄して奥地へと引き込み、長安に使者を送って唐に恭順を誓う姿勢を示した。 太宗はこれに喜んで、李靖を長安に呼び戻してねぎらい、あわせて李靖に突厥に対する外交を担う全権を与えた。李靖は頡利可汗の使者をもてなして降伏を受け入れるかのように見せかけながら軍備を整えると、躊躇う同僚の李勣を説得して騎兵1万に20日分の食料を持たせただけで突厥の本拠地に向かって出撃した。使者からの報告で油断していた突厥軍は為すすべもなく破られ、頡利可汗とその一族は捕らえられ、頡利可汗の妻で隋の宗室である義成公主を処刑した。これによって突厥は滅亡し、以降の数十年間は唐の北部国境では戦争がなかった。
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