突厥との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:19 UTC 版)
698年の渤海(当時は「震」)建国当初は東突厥の躍進期に当たっており、営州の反乱の後、東突厥第二可汗国の第2代阿史那默啜は唐を支援し契丹を攻撃するなど、東北アジアに於ける軍事的に優勢な地位を占めていた。建国間もない不安定な渤海は、唐による侵攻に備え、使者を東突厥に派遣しその支持を獲得している。その代償として渤海は東突厥の属国としての地位を甘受することになり、東突厥から派遣される吐屯(トゥドゥン)により渤海は統制と貢賦の権限を与えられることになった。 その後唐との関係が改善され、唐が大祚栄を冊封するに至ると東突厥との関係が疎遠となったが、大武芸が即位し唐と対立した際、東突厥の支援を得られなかった事で関係悪化は確定的となり、唐との和解と同時に東突厥と断交している。 734年、東突厥は渤海に使者を派遣し、契丹と奚の挟撃を打診されるが、渤海はこの要求を拒否、更に使者を抑留し唐に移送し処理を委任するという行動に出て東突厥との関係悪化は決定的なものとなった。その後、東突厥は内紛と唐との闘争により急速に勢力を衰退させ、渤海との紛争を起こす余力は無くなり、745年に回紇により東突厥は滅亡した。
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