突厥の滅亡後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 20:39 UTC 版)
中央ユーラシア全域を支配したテュルク帝国(突厥)であったが、両突厥の滅亡後は中央ユーラシア各地に広まったテュルク系民族がそれぞれの国を建て、細分化していった。 モンゴル高原では東突厥を滅ぼした回紇(ウイグル)が回鶻可汗国を建て、中国の唐王朝と友好関係となってシルクロード交易で繁栄したが、内紛が頻発して黠戛斯(キルギス)の侵入を招き、840年に崩壊した。 その後のウイグルは甘州ウイグル王国、天山ウイグル王国を建てて西域における定住型テュルク人(現代ウイグル人)の祖となり、タリム盆地のテュルク化を促進した。 中央アジアではカルルク、突騎施(テュルギシュ)、キメク、オグズといった諸族が割拠していたが、10世紀にサーマーン朝の影響を受けてイスラーム化が進み、テュルク系民族初のイスラーム教国となるカラハン朝が誕生する。 カスピ海以西ではブルガール、ハザール、ペチェネグが割拠しており、南ルーシの草原で興亡を繰り広げていた。 11世紀になるとキメクの構成部族であったキプチャク(クマン人、ポロヴェツ)が南ルーシに侵入し、モンゴルの侵入まで勢力を保つ。
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