李勣とは? わかりやすく解説

李勣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/26 14:20 UTC 版)

李勣・『清宮殿蔵本』より

李 勣(り せき、開皇14年(594年) - 総章2年12月3日669年12月31日))は、中国軍人は懋功(ぼうこう)。滑州衛南県の出身。本貫曹州離狐県。元の姓は徐、元のは世勣で、唐より国姓の李を授けられ、後に太宗李世民避諱して李勣と改めた。李靖と共に初唐の名将とされ、高句麗征服など数々の功績を挙げた。

経歴

出身

徐蓋の子として生まれた。富家の出身で、父と共に困窮した者を別け隔てなく援助した。大業の末年、近くで翟譲が徒党を集めて盗賊となり、徐世勣は17歳の時にこれに従った。翟譲は徐世勣の案を採用し、知り合いの多い地元での略奪を避け、宋・鄭両郡の黄河を行き交う商船・旅船を襲って物資を手に入れ、勢力を拡大していった。楊玄感の乱に参じた李密が翟譲のもとに逃げてくると彼を推戴した。隋将の王世充の軍を奇計を用いて破り、東海郡公となる。

大業13年(617年)2月、李密が魏公に即位すると右武候大将軍となった。ある時、河南と山東で大水害があり、日ごと数万人が飢餓で死んだ。同年9月、徐世勣は民衆を救済するため元寶蔵・郝孝德・李文相とともに黎陽の穀物倉を襲撃して占拠した。食糧をほしいままに取らせると、またたく間に20万余りの兵が集まった。

大業14年(618年)3月に煬帝が殺害され、李密が越王楊侗に降ると、徐世勣は右武候大将軍に任じられた。黎陽倉の守備にあたり、宇文化及に包囲されると外堀を深く掘って守りを固め、地下道から急襲して宇文化及を撃退した。

武徳元年(618年)10月、李密は王世充に敗れてに帰順した。黎陽・山東一帯を任されていた徐世勣はしばらくどの勢力にも帰属しなかったが、ある時長史の郭孝恪に言った。「この土地と民衆は魏公(李密)の所有である。私がこれらを献上するということは、主君の敗北を利用して富貴を求めることであり、それは恥ずべきことだ。10の郡の軍民の戸籍を記録して魏公に送り、ご自分から献上なされば、これは魏公の功績になる」。そこで李密に使者を遣わしたが、唐の李淵は自分への上表がないことを訝しみ、使者を問いただした。徐世勣の本意を知ると「徐世勣は徳を感じて功を譲る、まことに純臣である」と称揚し、黎陽総管、上柱国、萊国公を授けた。河南・山東の兵を統率させ、王世充への備えとした。

同年12月に李密が唐に背いて殺され、徐世勣のもとにその反状が届けられると李密の遺体を納棺して埋葬することを願い出た。李淵が認めて遺体を引き渡すと、君臣の礼をもって黎陽山の南に埋葬した。

武徳2年(619年)閏月(3月)、黎陽の民衆と河南十郡をもって正式に唐に降り、改めて黎州総管、曹国公、国姓の李氏を授けられた[1]

その後は唐の元で統一戦にて李淵の次男の李世民の軍の中核として活躍し、竇建徳・王世充討伐に功績を挙げた。李世民が即位すると并州都督とされる。都督としての法令は厳格で突厥の侵攻を許さなかった。太宗はその働きを「隋の煬帝は優れた人材を選んで辺境の防衛にあたらせるというやり方がわからなかった。ただ遠くまで長城を築き、多くの兵士を駐屯させたが、遂に何の役にも立たなかった。私はただ李世勣を晋陽へ置いているだけで、辺境が安寧になった。まさに、数千里の長城に勝る方法ではないか!」と高く評価した。630年には李靖とともに東突厥を征伐し、奇襲を受けて逃走する頡利可汗の逃げ道に陣を敷くことで退路を塞ぎ、可汗の捕縛に貢献した。

太宗は李世勣と李靖の功績について「李靖と李世勣の二人には白起韓信衛青霍去病といった名将も及ばないだろう」と賛辞した。

左遷

しかし太宗も晩年になると李世勣の才を恐れ、皇太子李治(高宗)に対して李世勣が忠誠を誓うか否か心配になり、ある策謀を行った。それは李世勣を畳州都督へと左遷することであった。太宗は李治に対して「もし李世勣が左遷されて、任地へ行くことを渋るようであれば即座に殺せ。もし任地へと素直に赴くようであれば、お前が即位した後に中央に呼び戻してやれ。左遷者を登用する事は大恩であり、それにより恩に感じてお前に対して忠誠を尽くしてくれるだろう」と言い残して、死去した。李世勣も太宗の思惑を察知していたので、この詔勅が出た後に家にも帰らずにその足で任地へと赴いた。

李治が即位して高宗になると名を李勣と改め、すぐに李勣は呼び戻されて中書門下三品とされ、朝廷の重鎮となる。

武則天時代と高句麗遠征

その後、高宗は武照(武則天)を新しく皇后に立てたいと思い、臣下に下問した。このときの李勣以外の主な人物が長孫無忌褚遂良于志寧であった。長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は沈黙を守り、李勣はこの会議に欠席していた。高宗はあきらめ切れずに、自ら李勣に対して下問し、李勣は「これは陛下の家事です。なぜ赤の他人である私に聞くのですか。」と答え、これに力を得た高宗は武照を皇后に立てた。この後、武照による専横の時代が始まり、李勣はこの時代を保身のために招いてしまったと後世から批判を受けることになる。

その後、長孫無忌・褚遂良・于志寧は武則天によって左遷され、長孫無忌と褚遂良は南方の辺境の任地で自殺に追い込まれたり病死したりした。李勣にはもちろんお咎めがなく、むしろ更に信頼されるようになる。乾封年間の高句麗遠征(唐の高句麗出兵、第3次)では唐軍の主将として活躍し、長年の敵であった高句麗を滅ぼすことに成功する。

総章2年(669年)12月、死去。享年76。

脚注

  1. ^ 『旧唐書』高祖本紀 - 己酉,李密舊將徐世勣以黎陽之眾及河南十郡降,授黎州總管,封曹國公,賜姓李氏

伝記資料

  • 旧唐書』巻67 列伝第17「李勣伝」
  • 新唐書』巻93 列伝第18「李勣伝」

関連項目


李勣(り せき)

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西遊妖猿伝」の記事における「李勣(り せき)」の解説

唐の武将李世民配下。もとは李世勣名乗っていたが、李世民即位する避諱により李勣とした。金角と戦う悟空捕らえその後宮城内で悟空対決するまた、西域に向かう悟空執拗に追いかけ一時捕らえ寸前まで行く。しかし、義に厚く恩には恩で返す人物のため、悟空見逃した。唐の武将達の中では、死者悼み手厚く葬れ指示するなど凶悪な人間の多い中、珍しく清廉な武将として描かれている。

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