終わりを全うする為に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 14:41 UTC 版)
その後、高宗は武照(武則天)を新しく皇后に立てたいと思い、臣下に下問した。このときの李勣以外の主な人物が長孫無忌・褚遂良・于志寧であった。長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は沈黙を守り、李勣はこの会議に欠席していた。高宗はあきらめ切れずに、自ら李勣に対して下問し、李勣は「これは陛下の家事です。なぜ赤の他人である私に聞くのですか。」と答え、これに力を得た高宗は武照を皇后に立てた。この後、武照による専横の時代が始まり、李勣はこの時代を保身のために招いてしまったと後世から批判を受けることになる。 その後、長孫無忌・褚遂良・于志寧は武則天によって左遷され、長孫無忌と褚遂良は南方の辺境の任地で自殺に追い込まれたり病死したりした。李勣にはもちろんお咎めがなく、むしろ更に信頼されるようになる。乾封年間の高句麗遠征(唐の高句麗出兵、第3次)では唐軍の主将として活躍し、長年の敵であった高句麗を滅ぼすことに成功する。『日本書紀』天智天皇紀には「大唐の大将軍英公(英国公李勣)が高麗(こま)を打ち滅ぼした」と記されている。 総章2年(669年)12月、死去。享年76。
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