終わりの時(真実の時)について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 03:35 UTC 版)
「ナスフ」の記事における「終わりの時(真実の時)について」の解説
真実の時については、次の三つのことが言われている。一つ目は、人間が生きているうちは、クルアーンが朗誦されたときに、聞き手が「真実の時」を生きるように、神の前の審判に直面させる現象が生まれるとされている。二つ目は、人間が死んだ場合のことである。それは、死んでから、しばらくしてあの世に行き、過去を振り返る人生の振り返り(決算)の時を迎えるというものである(17章14節)。三つめは、この世が終わる「最後の審判の日」が、真実の時を意味しているとするものである。それは、遠い未来のその時まで眠っていた魂が、元の肉体として甦えさせられる時であるとされている。そのように、終わりの時(真実の時)については、現在から、遠い未来までの幅があるとされる。 聞き手が「真実の時」を生きることは、クルアーンの朗誦によって可能であるとされる。イスラーム教徒が、人生を終えた後の「最後の審判」を想起し、信仰生活を深めてゆく行為は、「物事をよく反省する」と言い換えることができるようだ。39章42節には、「人が死ぬとき、その魂はみなアッラーのみもとに召されてゆく。まだ死なぬ場合も眠っている間は(アッラーのみもとに行っている)。死の宣告を受けた(魂)は、そのまま引き止め、その他の者(睡眠の間だけみもとにある魂)は、定めの時が来るまで、また、還しておやりになる。物事をよく反省する人々の眼から見れば、これこそ、れっきとした神兆ではないか、とある。最後の審判を待たなくても、人は、魂として存在し続けていると見ることができる。そのため、イスラーム教徒は、クルアーンが朗誦されたときに、現在という時間を介して、魂の次元に直結する、ということのようである。 初期には、84章にあるように、人間は、死ぬとすぐあの世に行き、生前の生き方を因として、楽土か苦土を渡り歩き、自分の所業にあった世界へと旅立つと見ることができる。ここでは、肉体が復活したときに行われるとされる「最後の審判」については明言されていない。ここを見ると、今現在、地獄に落ちている人がいるようなので、人間は、死んでからしばらくして、あの世に行くことになるようだ。そして、決算の時を迎えるようになるようだ。 17章14節には、人間の首に運命が結びつけられていて、復活の日になると、一人ひとりが開いた帳簿を突き付けられ、自分が自分の決算をつける日となるとされている。 最初期における啓示は、金もうけ主義の利己的な人々に対して発せられた。それは、こうした生き方を続けていると、必ずや終末の時が来る、という神の警告であった。初期には、こうした警告によって、道を誤った人々を救済したいという慈悲の心(利他の心)が原則にあったと言える。 その啓示の句が、「初期以外の啓示」であるかどうかの判断基準として、「迫害してくる敵」が想定されているかどうか、という視点を、判断の基準とする見方がある。それと同様のことが、「終わりの時」についても、言えるようである。「慈悲の教え」に到達していない、「神の取引のようなもの」に類するものは、神ならざる者の啓示である、とすることができる。 メディナ期等では、人間は死んでも、終末の日が来れば、再び肉体を持ったままで生き返らされ、裁きを受けるという啓示に変化した。 17章50節には、骨になり、ばらばらのかけらになろうが、石だろうが、鉄になろうが、今の肉体として、必ず生き返るとされていて、最後の審判における、肉体による復活について述べられている。 死後、神の審判を受けて、善行者は天国に、罪人は地獄にそれぞれ送られてゆくという概念は、ムハンマドがキリスト教の宗教概念を詳しく知るようになってから、取り入れられたとする見解もある。
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