楊玄感とは? わかりやすく解説

楊玄感

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/14 04:05 UTC 版)

楊 玄感(よう げんかん、生年不詳 - 613年8月)は、の将軍・政治家。本貫は弘農郡華陰県(隋の帝室とは別系統の弘農楊氏の出身)。613年高句麗遠征の際に煬帝に対して反乱を起こした。反乱そのものは数カ月で鎮圧されたが、これ以降の隋は本格的な反乱期に入った[1]

生涯

隋の重臣の子息

隋の重臣楊素の子。体つきはたくましく、美しい髭をたくわえていた。幼少期は愚か者だと言われていたが、成長すると読書を好むようになり、騎射を得意とした。601年仁寿元年)、父の軍功により柱国の位に進んだ[注 1]郢州刺史に就任すると、官吏の善政と汚職を明らかにして吏民から評価された。宋州刺史に転任したが、606年大業2年)に父の喪のため職を辞した。1年あまりして鴻臚卿に任じられ、楚国公の爵位を継ぎ、礼部尚書に昇進した。性格は傲慢であったが、文学を愛重し、天下に名の知られた士人の多くが彼の門を訪れた[2]

楊玄感は名門の出身で、広く名声を得ており、また朝廷に仕える文武官の多くはかつて父楊素の部下であった。煬帝の猜疑心が日増しに強まるにつれ、楊玄感は内心不安を抱くようになり、煬帝を廃して秦王楊浩を擁立することを企てた[2]。これについては、煬帝が晩年の楊素を疎んでおり、別の側近に対して「たとえ楊素が病死しなかったとしても、いずれ一族皆殺しになっていただろう」と述べたことも影響しているという[3]

609年(大業5年)の吐谷渾への親征の際、猛吹雪による混乱に乗じて煬帝を襲撃しようとしたが、叔父の楊慎に諫められて断念した。その後、威名を立てるために将軍の地位を欲し、辺境で功を立てることを望むと、煬帝は楊玄感を称賛し、ますます礼遇して朝政でも重く用いるようになった[2]

楊玄感の乱

613年(大業9年)、煬帝の第2次高句麗遠征の際に黎陽で挙兵した。
当時、民衆は重い労役に苦しみ、動乱の機運が高まっていた。楊玄感は黎陽において糧秣の輸送を監督しており、隋臣の王仲伯や趙懐義らと共謀し、遠征軍を飢えさせるために糧秣の輸送を意図的に遅らせた。群衆を動かす手立てがなかったため、来護児が反乱を起こしたと偽り、その討伐を名目に兵を動員した。帆布で鎧兜を作り、開皇期の官制を模範に役職を定めた[2]。参謀の李密は上中下の3策を提案した。楊玄感は下策の洛陽攻めを最善とし、「洛陽には百官の家族がおり、これを落とさずしてどうやって人々を動かすことができるのか」と述べた[4]。そして約1万の兵を集め、洛陽へ進軍した[2]

越王楊侗樊子蓋らは反乱の動向を知ると洛陽の防備を固めた。楊玄感は洛陽の上春門に駐屯して十数万もの兵を集め、隋臣の裴弘策を破った。彼は群衆に対して誓いを立てた。「私は上柱国の位に昇り、家には巨万の富がある。今、一家の破滅を顧みずに立ち上がったのは、ひとえに天下に差し迫った苦難を取り除き、民衆の命を救うためである」。群衆は喜び、志願する者は日に数千人に達した。また、樊子蓋に書を送り、「良い子孫であれば補佐し、悪い子孫であれば廃せよ」という文帝楊堅の遺詔に従い、天に背き、民を害し、徳を失った煬帝を廃して明哲な君主を立てると述べ立て、降伏を促した[2]

また、次のような檄文を発した。「主上は無道にして、百姓を以て念と為さず。天下騒擾し、遼東に死ぬ者、万を以て計う。今、君らと兵を起し、以て兆民の弊を救わんとするが如何?(煬帝は無道で、百姓を大切にしない。天下は乱れ、高句麗遠征で遼東で死ぬ者は万を数える。それゆえ私は百姓たちと挙兵し、困窮する皆を救おうとしたのだがどう思うか?)」。謀反の檄文は、例えば靖難の変のように君側の奸臣を除くように表現するのが普通だが、楊玄感は最初から皇帝を非難しており、これに呼応して韓相国や管崇らがそれぞれ反乱を起こしている[5]

隋臣の衛玄を幾度となく破った。楊玄感の勇敢な姿は項羽になぞらえられた。その後、屈突通宇文述ら隋軍に挟撃され、さらに樊子蓋の攻撃を受けて敗北が続いた。洛陽の攻略を断念して関中を目指したが、弘農宮の制圧に手間取り、宇文述らに追撃された。閿鄉や董杜原で大敗し、十数騎で山中に逃れた。葭蘆戍にたどり着いた時、もはや逃れられないことを悟り、弟の楊積善に命じて殺された。その首は煬帝のもとへ送られ、遺体は洛陽で磔にされた後、切り刻まれて焼かれた。姓は「梟」に改められ[2]、兄弟も連座で殺された[6]

その後と影響

煬帝の第2次高句麗遠征は、楊玄感の乱の影響を受けて頓挫した。

また、煬帝は反乱後、反乱に属した、あるいは関与したとして、関係者である数万人の大量虐殺を決行した。その虐殺には楊玄感が反乱を起こして洛陽の国庫から穀物を分けたものを受け取ったというだけで罪にされた者まで含まれており、彼らは洛陽の南側に生き埋めにされたという[7]

楊玄感の挙兵には劉元進ら民衆が呼応したほか、楊恭道(楊雄の子)や韓世諤(韓擒虎の子)などの貴族官僚の子弟40人以上が軍中に加わり、光禄大夫の趙元淑や兵部侍郎の斛斯政らも彼と内通した。それは支配階級の分裂を示すものであり、その後の農民反乱を促すものとなった[8]

脚注

注釈

  1. ^ 『隋書』楊素伝には、楊玄感が589年(開皇9年)に儀同に、590年(開皇10年)頃に上開府に、598年(開皇18年)に大将軍に任じられたと記されている。

出典

  1. ^ 楊玄感”. コトバンク. 2025年9月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 『隋書』楊玄感伝  (中国語). ウィキソースより閲覧.(2025年9月13日閲覧)
  3. ^ 陳 1985, p. 48.
  4. ^ 『隋書』李密伝  (中国語). ウィキソースより閲覧.(2025年9月13日閲覧)
  5. ^ 陳 1985, p. 50.
  6. ^ 『隋書』楊素伝  (中国語). ウィキソースより閲覧.(2025年9月13日閲覧)
  7. ^ 陳 1985, p. 51.
  8. ^ 杨玄感” (中国語). 百度百科. 2025年9月14日閲覧。

伝記史料

  • 隋書』巻70 列伝第35 楊玄感伝
  • 北史』巻41 列伝第29 楊玄感伝

参考文献

外部リンク





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