劉元進とは? わかりやすく解説

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劉元進

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/08 03:01 UTC 版)

劉 元進(りゅう げんしん、生年不詳 - 613年)は、中国隋末の民衆叛乱の指導者。本貫余杭郡

生涯

若くして任侠を好み、郷里の指導者となった。煬帝高句麗遠征による民衆の負担は重く、徴兵されて帰らない者も続出したため、元進は隋の統治に不満を持つ人々を集めた。613年大業9年)、楊玄感が黎陽で反乱を起こすと、元進は呼応して起兵し、三呉の人々の多くがかれになびいて、その集団は数万にふくれあがった。長江を渡ろうとしたが、楊玄感が敗死したため断念した。呉郡の朱燮と毗陵郡の管崇がまた挙兵して7万の兵を集めると、元進を迎えて主に立てた。呉郡に拠り、天子を称し、朱燮と管崇を僕射に任じ、百官を置いた。毗陵郡・東陽郡会稽郡建安郡の人々も隋の官吏を捕らえてかれの反乱に呼応した。

煬帝は将軍の吐万緒魚倶羅に命じてかれの反乱を討たせた。元進は西方の茅浦に駐屯し、隋軍と連戦して双方に勝敗があった。元進が曲阿に退くと、朱燮や管崇らと合流して10万の兵を集めた。吐万緒らが進軍してくると、対峙すること100日あまり、元進は敗れて黄山に退却した。吐万緒が黄山でまた元進を破ると、朱燮が戦死し、元進は建安郡まで退却して兵を休養させた。隋の二将も兵が疲れていたため、それ以上の進撃を控えた。まもなく二将はともに更迭され、代わりに江都通守の王世充淮南の兵を率いて長江を渡った。元進の抗戦により王世充はいったん延陵柵にしりぞいた。元進は王世充の陣営に火をかけたが、風向きが急に変わって元進の兵に被害を出して退却した。王世充はこの機に乗じて精鋭を出撃させ、元進の軍を大破し、以後は元進の側が連戦連敗した。追いつめられた元進と管崇は最後の戦いを挑んで、王世充の兵に殺害された。元進の兵は降伏したが、王世充が黄亭澗に穴埋めにして、死者は3万人を数えた。

元進の死後も董道沖・沈法興李子通らが蜂起し、隋の滅亡まで戦争は続いた。

伝記資料

  • 隋書』巻70 列伝第35
  • 北史』巻41 列伝第29



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