隋の唐公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 16:48 UTC 版)
李淵はまず隋の千牛供身となり、譙隴二州刺史・岐州刺史・滎陽楼煩二郡太守・殿内少監・衛尉少卿などを歴任した。 文帝の後に煬帝が立って高句麗遠征を開始すると、李淵は懐遠鎮で兵站を監督した。やがて楊玄感の乱が起こると弘化留守となり、関右の諸軍を統率して楊玄感の進軍を防いだ。615年に山西河東慰撫大使に任じられると、龍門の母端児の乱を掃討、また絳州の柴保昌を討伐した。突厥が隋の辺境を侵すと、馬邑郡太守の王仁恭とともに突厥軍を撃退した。617年には太原留守に任じられた。 次男の李世民や晋陽令の劉文静らの使嗾により、隋に対する反乱を決意。6月に諸郡に檄を飛ばして起兵し、一気に軍を南下させ、11月には長安(当時は大興城)を陥れた。また煬帝の太上皇帝への退位を宣言し、首都長安の留守を命じられていた代王楊侑を新たに擁立して隋の恭帝とした。加えて618年3月には恭帝の詔として相国への昇進と九錫の下賜を受けたが、これに対し李淵は「これは私に阿り諂う者の差し金であろう。魏・晋の建国者らは上辺だけを取り繕って天や人を欺き、その実は五覇にも及ばないにも拘らず三王以上の名声を欲した。常々これを軽蔑していた私が、なぜ奴らと同じ真似ができよう」と述べ、相国の座のみを受諾し、九錫の贈呈を固辞した。
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