隋による統一政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:34 UTC 版)
隋朝時代は魏晋南北朝に比べ商業が発達し、その規模は広大なものであった。特に商業が盛んだったのは長安と洛陽の2都で、世界的大都市でもあった。長安には東西の市があり、東市は都会として、西市は富裕な外人の居住地として、大いに栄えた。洛陽には東の豊都、南の大同、北の通遠の3市があった。通遠には文帝・煬帝が築いた大運河が隣接しており、華北と江南を結ぶ物流で賑わった。商人は雲のように多く、船は万を超える数であった、とされる。江都は江南の貨物の集積地であり、これも運河による物流で栄えた。江南には宣城郡、毗陵郡(江蘇省常州)、呉郡(江蘇省蘇州)、会稽郡(浙江省紹興)、余杭郡(浙江省杭州)、東陽郡(浙江省金華)などの商業都市が栄えた。他にも成都は巴蜀地区の商業的中心地で、広州は海外貿易の中心であった。当時の隋の貿易政策は西域廻廊と海上貿易にあった。西域廻廊はサーサーン朝ペルシャ、東ローマ帝国に繋がったとされる。海上貿易では東南アジア諸国や日本と繋がった。特に日本との関係は密接なものとなった。 南北朝時代は貨幣の不一致が起こっていた。南朝梁・南朝陳では五銖銭を用いていたが、嶺南の奥地では米布塩などの物々交換が依然として行われ、北斉では常平五銖、北周では永通万国・五行大布・五銖銭の3種、他にも河西の諸郡では西域の金銀貨を用いていた。隋初期において、各地では各々の貨幣を用いていたが、581年に文帝は新たな五銖銭を定め、1000銭を4斤、2両と等しいとした。また古い貨幣や私鋳銭の流通を禁止した。江都郡(揚州)では五炉、江夏郡(武漢)では十炉、成都では五炉というように、五銖銭の鋳造にも規程を加えた。しかし煬帝の頃に政治が荒れ、私鋳銭が跋扈し、1000銭は1斤相当となってしまった。この頃には鉄片や皮革、糊紙が銅銭に混ぜて用いられていた。それにより遂には貨幣の価値は軽んじられ、物々交換が優勢となった。その後隋は滅び、唐が建った。魏晋南北朝時代は米穀絹衣の物々交換経済に貨幣が導入されつつあった時代であった。
※この「隋による統一政策」の解説は、「中国の経済史」の解説の一部です。
「隋による統一政策」を含む「中国の経済史」の記事については、「中国の経済史」の概要を参照ください。
- 隋による統一政策のページへのリンク