李匡籌
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李 匡籌(り きょうちゅう、生年不詳 - 895年)は、唐代の軍人。盧龍軍節度使。本貫は幽州薊県。
経歴
盧龍軍節度使の李全忠の子として生まれた。兵馬留後・検校司徒となった。兄の李匡威が酒に酔って匡籌の妻の張氏に手を出したため、匡籌は恨みを抱いていた。景福2年(893年)春、河東節度使の李克用が井陘に兵を出すと、李匡威は成徳軍節度使の王鎔に救援を求められて、援軍に赴いた。匡威の軍が博野にいたったとき、匡籌は幽州の城を占拠して自ら盧龍軍節度使を称した。昭宗により検校太保とされ、節度使に追認された[1][2]。
この年、李匡威が王鎔の兵に殺害されると、匡籌は兵を出して深州の楽寿・武強を攻めて恥に報いた。李匡威の部下であった劉仁恭が河東に降った。乾寧元年(894年)冬、李克用は劉仁恭の謀を聞き入れて、武州と嬀州を攻め落とした。乾寧2年(895年)2月、盧龍軍は河東の軍に居庸関で敗れ、匡籌は一族を引き連れて逃亡し、長安に赴こうとした。景城にいたって、義昌軍節度使の盧彦威に殺害された。匡籌の妻の張氏は劉仁恭に捕らえられて、李克用に献上され、のちに夫人に立てられた[3][4]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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