李全忠
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李 全忠(り ぜんちゅう、生年不詳 - 886年)は、唐代の軍人。盧龍軍節度使。本貫は幽州薊県。
経歴
平州刺史の李慕勲の子として生まれた。広明元年(880年)、棣州司馬となった。ときに全忠の部屋の中に蘆が生え、1尺に3つの節があったので、全忠はいぶかしく思った。そのことを別駕の張建に話すと、張建は「蘆は茅の類で、公家に茅土の兆しがあるのは、天意といってよいものです。その3節あるのは、節鉞を伝える者が3人あるということです。公は功名を立てることにつとめられ、この言葉をお忘れなきように」といった。全忠は任期を満了すると郷里に帰り、盧龍軍節度使の李可挙に仕えて牙将となった。李可挙は義武軍節度使の王処存から易州と定州を奪おうと図り、全忠は易州に派遣された。光啓元年(885年)、易州をひとたび奪ったものの、王処存に奪回されて逃げ帰った。全忠は敗戦の罪を問われるのを恐れて、敗残の兵を糾合して幽州を攻め、李可挙を自死に追い込んだ。軍中に推されて留後となった。朝廷により盧龍軍節度使に任じられた[1][2]。光啓2年(886年)8月、死去した[3][4]。
子に李匡威・李匡籌があり、相次いで盧龍軍節度使となった[5][6]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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