李孝恭とは? わかりやすく解説

李孝恭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/12/07 07:41 UTC 版)

李孝恭

李 孝恭(り こうきょう、591年 - 640年)は、中国宗室。西平懐王李安の子。祖父は李蔚。唐の高祖李淵の従子にあたる。唐初に中国の南方を経略する主将をつとめ、凌煙閣二十四功臣の第二位に挙げられた。

唐初の宗室名将。総帥として巴蜀を統治し、荊湘を席巻したのみならず、雷霆の如き勢いで江南を平定し、嶺南を畏服させ、李唐王朝に半天下を築く基盤を固めた。その用兵は巧妙でありながら懐柔策をも兼ね備え、城塞を陥落させるだけでなく民情を安定させることにも長け、無闇な殺生を好まぬ仁徳をもって四方を帰順させた。後世においては武廟六十四将の一人に列せられ、李道宗とともに宗室の将帥の中でも最も有能な双璧と称されている。

経歴

大業13年(617年)、李淵が長安を平定すると、孝恭は左光禄大夫に任命され、間もなく山南道招尉大使となった。武徳元年(618年)、金州から巴蜀に進出して、三十余州を下した。進撃して、朱粲を破り、その部衆を捕らえた。諸将たちは「朱粲は食人の賊であるから、穴埋めにしてしまいましょう」と勧めたが、孝恭は「捕らえた者を殺しては降伏するものがいなくなる」と言って彼らを許した。

武徳2年(619年)、信州総管に任ぜられ、江陵に拠る蕭銑を平定する策を李淵に進言した。趙郡王に進み、信州が夔州に改称されると、そのまま夔州総管となった。孝恭は巴蜀の首領の子弟を徴用して自軍に編入した。荊湘道総管となり、李靖を副将に用い、水陸の十二軍を率いて、蕭銑を攻撃した。孝恭は鹵獲した戦艦を故意に長江中に放棄して、蕭銑への援軍に疑心暗鬼を起こさせた。蕭銑は江陵で孤立し、ついに唐に降伏した。

孝恭は荊州大総管となり、屯田を置き、銅冶を立てて民衆の便宜を図った。襄州道行台尚書左僕射となり、嶺南の四十九州に遣使して招撫した。輔公祏中国語版が江南でそむくと、孝恭は行軍元帥として李勣・李靖・黄君漢・張鎮周らの軍を率いて輔公祏を攻め、糧道を絶って敵を飢えさせ、これを大いに破った。東南道行台尚書左僕射に進み、行台が廃されると揚州大都督となった。邸に石頭城を築いて自衛のかまえをみせたため、謀反を誣告され、召還されて詰問された。謀反の実態がなかったため、許されて宗正卿に任ぜられた。実封千二百戸を賜り、涼州都督・晋州刺史を歴任した。貞観初年に礼部尚書に任ぜられ、貞観11年(637年)には趙郡王から河間郡王に改封された。

趣味は豪奢で、歌舞や美人を好んだが、人に対しては寛仁謙譲で、おごった様子を見せず、太宗にも重用された。貞観14年(640年)、飲中毒により亡くなった。享年は50。死後に司空・揚州都督の位を追贈され、元とされ、献陵に陪葬された。

子に李崇義・李晦がいた。

評価

『旧唐书』:孝恭のみが方面での功績が顕著で、その名声は非常に高かった。自らを重んじて威厳を保ち、威名をもって遠方を鎮めようと、石頭城に屋敷を築き、兵舎と哨所を設けて自衛した。……河間王(李孝恭)の節度は神々にも通じ、その志は朝廷と国家を救わんとするものであった。故に、邪な力が正しい徳に勝たないことは明らかである。……河間郡王・李孝恭は、ただ一人、軍功をもって称えられたのである。

『新唐书』:景皇帝(李虎)と元皇帝(李昞)の子孫たちは、王朝創世の混沌とした時期に、時運に乗じて奮起した。高祖が四方の敵を討伐排除していた時、力を尽くして貢献し、いずれも世に名立たる豪傑・英雄となった。中でも、河間郡王(李孝恭)の軍功と江夏郡王(李道宗)の謀略は、宗室の模範と言うべきものである。

吕温:太極が天を構えるは、もとより一気より成る。大人(高祖)が創業するには、我が族類を資(と)る。堂々たる河間王(李孝恭)、仁と勇とを経範(おきて)とす。俊秀にして声譽高く、唐の宗室の英傑なり。暴虐なる隋は天に亡ぼされ、群盗猖獗す。我ら征伐して功を顕わし、時にこれ哲王(太宗)あり。武威は烈光ありて、爪翼(補佐)となり肺腸(腹心)となり、八方を経綸す。 南より東へと、海を晏(やす)らげ江を澄ます(蕭銑・輔公祏を平定)。父兄(高祖)をして天下に帝たらしめ、家を化して邦(国)と為さしむ。爾が力を竭くして用い、寵はその極みに至る。言に伐(ほこ)らず、色に徳(おご)らず。 遜(へりくだ)りて默し、柔嘉(柔和で善良)これ則りとす。高祖を佐けて大勲を建つること、周の旦や奭の如く、太宗と共に大成を守ること、漢の間や平(河間王・平陸王)の如し。君たるに宜しく王たるに宜しく、盤石のごとく無疆(永遠)なれ。

張预:李孝恭は若い頃から沈着聡明で、識見と度量を備えていた。……孫子は次のように述べている。『形之(姿を見せて偽装せよ)、敌必从之(敵は必ずそれに従う)』孝恭が船団を長江に展開して賊軍の援軍を欺いたのは、これである。『禁祥去疑(迷信を禁じ、疑念を取り除け)』孝恭が杯の水が血に変わる現象を「敵将の首が斬られる前兆」と解釈して兵士の心を落ち着かせたのは、これである。『以利动之(利で誘い出せ)、以卒待之(兵力で待ち伏せよ)』孝恭が弱兵を見せかけて敵を挑発し、精鋭の騎兵で迎え撃ったのは、これである。

黄道周:李孝恭は唐の宗族、智勇並ぶもの無し。巴蜀を征すれば、降伏する者相次ぐ。「捕虜皆殺しを」と請うも、孝恭は思案す。降って殺されば、誰が再び降らんや。蕭铣を包囲し、その防衛線を破る。獲たる軍艦を、流れに満ちて放つ。敵は壊滅と誤認し、敢えて迎え撃たず。真相を知。進軍すれど、もはや铣は降伏す。輔公祏叛く、丹陽を寇す。孝恭征討に赴くも、酒に血光浮かぶ。皆驚くも孝恭は賀す、「これは敵将討ち取りの吉兆」と。やがて公祏を擒にして斬り、河間の王に封ぜらる。

人物・逸話

蕭铣の将軍・文士弘は精鋭数万を率いて清江に駐屯した。李孝恭は攻撃を主張したが、李靖は「士弘は勇将で、今は敗戦の挽回に必死。鋒芒を避け、士気が衰えるのを待つべきだ」と反対した。孝恭は諫言を聞かず出撃し、大敗して南岸へ退却。敵軍が略奪で混乱しているのを見た李靖は、直ちに反撃に転じ、軍艦400余隻を鹵獲し、約1万を斬首・水死させて大勝した。

李孝恭は巴蜀の首長たちの子弟を召し出し、その才能に応じて官職を与えて登用した。彼らを自身の側近として配したのであるが、表面上は抜擢しているように見せながら、実質的には人質として確保する意図があった。

輔公祏が江東で反乱を起こし、寿陽を攻撃した。高祖は李孝恭に行軍元帥を命じて討伐させた。武徳7年、李孝恭は荊州から九江へ進軍し、李靖ら諸将を統率した。出陣前の宴で杯の水が突然血に変わり、将軍たちが動揺する中、李孝恭は「これは輔公祏の滅亡の前兆だ」と冷静に言い放った。

輔公祏の将・馮恵亮が険要の地で挑戦してきたが、李孝恭は守りを固めて出撃せず、奇襲部隊で敵の兵糧輸送路を断った。兵糧不足に苦しむ敵軍が夜襲を仕掛けてきても、孝恭は動じなかった。翌日、わざと弱兵を見せて敵陣を挑発し、盧祖尚に精鋭騎兵を伏せさせた。撤退を装った唐軍に誘い出された敵が追撃して混乱したところを伏兵が急襲し、敵軍は大敗。馮恵亮は梁山に退却し、李孝恭は勝勢に乗じて敵の他の拠点も次々と陥とした。

闞稜は杜伏威の同郷で、体格が魁偉で勇猛であった。両刃の長刀「陌刀」を得意とし、一振りで数人を斬り倒すほどで、敵に対し無敵の強さを誇った。杜伏威に従い江淮を平定し、軍功により左将軍に任じられた。配下の元盗賊たちを厳正に統率し、縁者でも容赦なく罰した。後に杜伏威と共に唐朝に帰順し、左領軍将軍・越州都督となった。輔公祏の反乱鎮圧では、青山の戦いで兜を脱ぎ旧配下の敵兵を威圧して士気を挫き、戦功を立てた。しかし功績を誇り驕るようになり、捕らえられた輔公祏に共謀を誣告され、さらに李孝恭と財産没収をめぐり対立したため、謀反の罪で処刑された。

大業末年より群雄が競い起こったが、多くは太宗李世民に平定され、その幕下の謀臣・猛将で独自に顕著な功績を立てた者は少なかった。ただ李孝恭のみが別方面で大きな戦功を立て名声を轟かせた。彼は威厳を重んじて石頭城に豪壮な屋敷を築き、警備兵を配置した。しかし後に親しい者に「この屋敷は過ぎに壮麗である。売却して質素な住まいを建てたい。もし子孫に才能がなければ、他人に奪われる心配もないだろう」と語り、子孫の安泰を慮った。

演義小説中の李孝恭

『唐书志伝通俗演義』によると、唐の高祖李淵は、徐円朗が劉黒闥と連合して河南を侵擾していることを知り、まず南方の蕭銑を平定することを決意した。彼は趙郡王李孝恭と李靖に巴蜀の精兵十五万を率いて東征するよう命じた。李孝恭は李靖の速戦速決の策を採用し、江水の増水に乗じて急襲をかけ、荆門・宜都を続けざまに攻略し、江陵に迫った。蕭銑は慌てて応戦し、李孝恭は初戦で敗北したが、李靖が直ちに救援に駆けつけ、敗勢を逆転して勝利を収めた。最終的に蕭銑は降伏し、李孝恭は掠奪を禁じて民心を安定させたため、南方の州県は次々と帰順した。蕭銑は長安に護送された後、屈しなかったため処刑された。

罗贯中の『隋唐両朝志伝』において、李孝恭の物語も同樣に、蕭銑討伐の一節に集中している。唐の高祖李淵は趙郡王李孝恭を夔州総管に任命し、南方の割拠勢力である蕭銑征討の軍事行動の全権を委ねた。李孝恭は行軍総管の李靖と共に軍を率いて出征した。清江口での初戦勝利後、李靖が船を捨てて敵を惑わす妙計を提案すると、総帥として李孝恭はこの決断を採用し支持し、人を見る目と決断力を見せた。唐軍はこれにより迅速に江陵城下に迫った。最終的に、蕭銑は民衆を守るために城門を開いて降伏し、李孝恭は征服者としてその降伏を受け入れ、将兵を派遣して長安に護送した。十余万の梁朝援軍が到着した後、李孝恭の威光によって彼らはことごとく帰順した。最終的に、李孝恭は軍を返し、凱旋して勝利を奏上し、高祖から委ねられた南方平定の重任を見事に成し遂げた。

『大唐秦王詞話』において、趙郡王李孝恭は李淵の義弟という設定となっており、書中では一般的に「老大王」と呼ばれている。尉遅敬徳が唐の城池を続けざまに攻克し、危急の報せが入った状況下で、自ら進んで紅竜山へ赴き、齊王李元吉の援軍に向かうことを願い出た。書中では李孝恭を「霜鬓雄心似铁,胸中气焰凌霄。眼明尚识阵云高,据鞍犹矍铄,壮志压群豪。臂健更嫌弓力软,腹藏豹略龙韬。手擎金简茜缨刀。玉螭攒宝带,蛟蟒绕征袍。」(白发に雄雄しき心は鉄の如く、胸に漲る気焔は天を衝く。眼は尚も鋭く戦雲の高きを見識り、鞍上に坐してなお矍鑠たり、壮なる志は群豪を圧す。健やかなる腕は弓の力弱しと嫌い、腹には豹略龍韜を蔵す。手に擎くは金簡茜纓の刀。玉螭は宝帯に攒り、蛟蟒は征袍に繞る。)という賛詩で描写している。紅竜山では、李孝恭が八卦陣を布いて尉遅敬徳と交戦するが、敬徳は姜眸、顏勇の二人の副将を続けて討ち取った。李孝恭は激怒して自ら進み出て尉遅敬徳と戦うが、一鞭のもとで討ち死にし、その子の李仲文が父の仇を討とうと進み出て戦うが、これまた敬徳に討ち取られてしまう。 しかし、その後続く蕭銑挙兵の物語の中で、再び趙元王李孝恭という人物が登場しており、これは物語の前後で矛盾が生じている可能性がある。

伝記資料

  • 旧唐書』巻六十 列伝第十「宗室伝」
  • 新唐書』巻七十八 列伝第三「宗室伝」




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