李孚とは? わかりやすく解説

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李孚Li Fu

リフ

(?~?)
陽平太守

字は子憲。鉅鹿郡の人《賈逵伝》。本姓を馮氏といったが、のちに李氏改めた賈逵伝》。馮員の父、馮紞祖父晋書馮紞伝》。

『晋書』では安平の人とあり、名を「浮」とする。

興平年間一九四~一九六)、李孚は学生であったが、韮を植えて成熟待ってから収穫するつもりだった。鉅鹿では人々飢え苦しんでいて、彼に韮を求める者もいたが、李孚は一本分け与えず、自分でも食べようとしなかった。そのため当時の人々は強い意志持っている評価した賈逵伝》。

のちに役人となり、建安年間一九六~二二〇)に袁尚冀州宰領するようになると、その主簿となった。のちに袁尚は兄袁譚諍い起こし別駕審配を鄴城に残して平原遠征に出かけた。そのとき曹操が鄴城を包囲したため、袁尚引き返したが、その途中、鄴城内守備少ないことを案じ、また審配外部動静知らせた思い、誰を派遣すべきかと李孚に相談した賈逵伝》。

李孚は言った。「いま小者を行かせれば内外状況充分に知らせることもできず、しかも到達できない恐れさえあります。李孚がみずから参りましょう」、袁尚必要なものはあるか」、李孚「鄴の包囲は非常に厳しいと聞きます大勢ならば気付かれますゆえ、ただ三騎のみ率いていけば充分です」。袁尚はそれを聞き入れた賈逵伝》。

李孚はみずから穏健な者を三人選び行き先告げず、「食糧準備せよ、武器持ってはならぬ」と命じそれぞれに悍馬支給した袁尚別れ告げて南方向かい駅舎休息をとりながら淇までやってきた。従者には問事の三十本を乗馬に付けさせ、自分は平上幘を着用し従者三騎を連れて日暮れどきに鄴の城下到着した。このとき大将軍曹操?)が禁令出していたにも関わらず、(包囲する者の中には馬草食わせる者が多かったので、李孚はそれを利用して夜中到着したのである賈逵伝》。

太鼓鳴らしながら真っ直ぐ(包囲陣へ)入り、「都督だ」と自称しつつ北側の陣を通過立て札当たって東へ歩き東側の陣の立て札からは、さらに包囲陣沿いに南へ歩いていった。歩いて行くごとに包囲将兵叱りつけ、過失重さに従って処罰行った太祖曹操)の本陣の前を通り過ぎ真っ直南へ横切り南側の陣の角からは西に折れ章門まで来ると、またもや包囲の者を怒鳴りつけて縛り上げたその場所の包囲の者を下がらせておいて城下駆け寄り城壁の上の人を呼ぶと、上の人が李孚を繩で引っ張り上げた。審配らは李孚の姿を見ると泣いて喜び太鼓の音も騒がしく歳を唱えた包囲の者が報告すると、太祖は「こやつめはただ入ったばかりではない、また抜け出してくるだろう」と笑った賈逵伝》。

李孚は役目終えたので帰ろうとしたが、外の包囲厳しくなっていて、もう出ていくことはできない思った。おのれの使命考えれば早く帰らなければならない。そこで心の底計略固め審配に「いま城内食糧少ないので年寄り子供のために使ってはなりませぬ。こいつらを放り出して食糧節約しましょうと言った審配はそれを聞きとどけ、次の夜、数千人を選んで白旗持たせ三つの門から一斉に降服させた。また一人一人松明持たせ、李孚はやがて、連れてきた従者降服者と同じ衣服着せて、みなと一緒に出ていった《賈逵伝》。

そのとき包囲将兵たちは、城内の者が全員降服する聞いていたし、松明の光が明るく輝いていたので、みんなでただ光を眺めるだけで包囲のことを忘れていた。李孚は北門を出ると、西北の角から包囲突破して抜け出すことができた。翌日太祖は李孚が脱出した聞き、「吾の言った通りだったな」と手を打って笑った賈逵伝》。

李孚が北方行き袁尚拝謁すると、袁尚は非常に喜んだ。しかし袁尚は鄴を救援することができず、敗走し中山落ち延びたが、そこへ袁譚がさらに追撃したので、袁尚逃走する。李孚は袁尚見失ったため、袁譚元へ参詣して今度袁譚主簿となり、東方平原帰った賈逵伝》。

このとき袁尚城北十七里、滏水の向こう岸にいた。だから「北方行ったと言うのであるこのあと城内審配出撃して、袁尚とともに包囲陣を挟み撃ちにしようとしている。李孚の伝えた計略なのだろう。なお彼が袁譚から授かった官職青州主簿ではなく冀州主簿であることが後文見える。

太祖進撃し袁譚攻撃すると、袁譚戦死してしまったので李孚は城に戻った城内では降服することが決まったが、まだ混乱続いていて落ち着かなかった。李孚はひとまず太祖拝謁しておくべきだと考え、馬に乗って牙門まで行き、「冀州主簿李孚、密かに申し上げたき儀あり」と叫んだ太祖が彼を呼び入れると、李孚は土下座して陳謝した《賈逵伝》。

太祖何を申したいのかと訊ねると、李孚は「いま城内では強者弱者争い、みな心が落ち着きませぬ。降服者のうち城内でも信頼されている者に、ご命令伝えさせるのがよろしかろう存じます」と答えた。公(曹操)は「卿が即時帰城して伝えてくれ」と言った。李孚が平伏し命令乞うと、公が「卿の考えによって伝えよと言ったので、李孚は城内帰り、「おのおの本来の持ち場帰れでしゃばってはならぬ」と命じた城内はこうして落ち着いた。そこで報告帰ると、公は役立つ者だと李孚を評価した。このとき離間を図る者がいたため、遠ざけられ閑職回された《賈逵伝》。

出向して解の県長兼務し厳格有能であると名を高めた次第昇進して司隷校尉まで昇り当時七十歳余りだったが、彼の精密さ決断力衰え見せず策略は昔のままだった。陽平太守務めていたとき亡くなった賈逵伝》。

参照袁尚 / 袁譚 / 審配 / 曹操 / 馮員 / 馮紞 / 解県 / 冀州 / 鄴県 / 鉅鹿郡 / 章門 / 中山国 / 平原郡 / 陽平郡 / 梁期県淇県) / 県長 / 主簿 / 司隷校尉 / 太守 / 大将軍 / 都督 / 別駕従事 / 問事 / 牙門 / 表(立て札) / 平上幘 / 問事


李孚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/13 14:39 UTC 版)

李 孚(り ふ、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の政治家、曹操に仕えた。字は子憲冀州鉅鹿郡の人。元の姓は。馮耽の祖父。

正史の事跡

姓名 李孚
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 子憲(字) 馮孚(旧名)
本貫・出身地等 冀州鉅鹿郡
職官 主簿→司隷校尉→陽平太守
爵位・号等 -
陣営・所属等 袁尚袁譚曹操
家族・一族 〔不詳〕

袁紹の三男袁尚の配下。『三国志』魏書賈逵伝の注に引く『魏略』に記載がある。

袁紹が建安7年(202年)に死去した頃、李孚は袁尚に主簿として仕えた。建安9年(204年)、袁尚の参謀で別駕の審配が鄴で曹操に包囲され、袁尚も援軍に来たものの曹操軍の包囲の前に動けずにいた。この時、李孚は自ら志願して、審配に援軍到着を知らせる使者となる。李孚は、たった3人の供だけを連れて曹操軍の都督に偽装し、曹操軍の包囲を通過して悠然と鄴城に入った。この余りの鮮やかな突破劇に、審配軍は太鼓を打ち鳴らして万歳し、曹操も苦笑いするばかりだったという。

入城して援軍到着を知らせた後、さらに李孚は、糧食を節約するためにも、城内の老人と子供に白旗を持たせて曹操軍に降伏させるよう審配に薦めた。審配はそれに従い、降伏が実行されている間に李孚は鄴城を脱出して、袁尚のところに無事帰還した。

しかし、袁尚は曹操軍の掃討の前に敗退し、李孚は袁尚と離れ離れになってしまったため、やむなくその兄の袁譚に仕え、平原に赴任した。建安10年(205年)に袁譚が滅亡すると、李孚は曹操の下に出頭し、曹操から全権を承認してもらった上で、平原城内の混乱を収拾した。

以後、曹操に仕えたが、当初は讒言があって閑職に任じられただけだったという。それでも次第に昇進し、70歳余りの頃には司隷校尉になったという。後、陽平太守在任中に死去した。

小説『三国志演義』でも、鄴城への侵入、老人子供の降伏までは描かれている。しかし、鄴城からの脱出以降の記述は無く、曹操配下となったことにも触れられていない。

参考文献



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