鉄勒の回紇(ウイグル)部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:33 UTC 版)
「ウイグル」の記事における「鉄勒の回紇(ウイグル)部」の解説
詳細は「鉄勒」を参照 6世紀~7世紀、高車は鉄勒(てつろく)と呼ばれるようになり、袁紇(ウイグル)部も中国史書で烏護・烏紇・韋紇などと記され、やがて迴紇・回紇と表記されるようになる。当時、鉄勒諸部は突厥可汗国に属し最大の構成民族であったが、趨勢に応じて叛服を繰り返していた。 隋代に42部を数えた鉄勒諸部(アルタイ以西に31部・勝兵88,000、以東に11部・勝兵20,000)は、唐代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200,000)、その中でも回紇(ウイグル)部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を薛延陀(せつえんだ)部と争った。 629年に部族長の吐迷度は薛延陀部を破り、鉄勒の盟主となった。646年には唐に帰順し、回紇部は瀚海都督府とされ、吐迷度は懐化大将軍を拝命し、瀚海都督となった。 682年、東突厥が再興(第二突厥可汗国)すると回紇(ウイグル)部は再び屈従を余儀なくされたものの、734年に東突厥の毘伽可汗(ビルゲ・カガン)が毒殺されると、バシュミル部、カルルク部らとともに東突厥へ度々攻撃を仕掛け、745年に回紇(ウイグル)部の可汗(カガン、君主)となった骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が唐と組んで最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して東突厥可汗国を滅ぼした。
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