鉄勒の回紇部の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 19:33 UTC 版)
6世紀~7世紀の鉄勒時代には烏護・烏紇・韋紇などと記され、やがて迴紇・回紇と表記されるようになる。当時、鉄勒諸部は突厥可汗国に対し、趨勢に応じて叛服を繰り返していた。 隋代に42部を数えた鉄勒諸部(アルタイ以西に31部・勝兵88,000、以東に11部・勝兵20,000)は、唐代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200,000)、その中でも回紇部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を薛延陀部と争った。 648年に部族長の吐迷度が、姪である突厥の車鼻可汗と血縁にあった親突厥の烏紇と倶羅勃に謀殺される動乱を唐の介入によって平定したため、唐の羈縻政策下に入り部族長は大イルテベル(大俟利発)・瀚海都督・左驍衛大将軍を名乗った。 7世紀後半に東突厥が再興すると再び屈従を余儀なくされたものの、734年に毘伽可汗(ビルゲ・カガン)が貴族に毒殺されると、内戦に陥った東突厥第二可汗国へ度々攻撃を仕掛け、745年に骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が唐との挟撃により最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して突厥可汗国を滅ぼした。
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