羈縻(きび)政策下
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 10:05 UTC 版)
頡利可汗の降伏後、唐は鉄勒の薛延陀部族長である夷男を真珠毘伽可汗とし、モンゴル高原を支配させ、東突厥に対しては中国内に留めて監視する羈縻支配をおこなった。しかし、モンゴル高原の薛延陀部が次第に勢力を増してきたため、唐は646年に北伐を行い、薛延陀部を破って羈縻支配に入れ、それにともない鉄勒諸部も羈縻支配に入れた。ちょうどその頃、東突厥の別部出身の車鼻可汗が金山(アルタイ山脈)の北で独立の姿勢を見せたため、貞観23年(649年)に唐は迴紇部・僕骨部などを率いて車鼻可汗を襲撃した。すると車鼻可汗に従っていた諸部が次々と降伏していき、翌年(650年)には車鼻可汗が捕らえられ、北方民族はすべて唐の羈縻支配下に入ることとなった。 これら、唐に降って長安までやって来た諸部族長たちは、時の皇帝太宗に対して“天可汗(テングリ・カガン:Täŋri-Qaγan)”の称号を奉ったという。
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