650年代
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650年代(ろっぴゃくごじゅうねんだい)は、西暦(ユリウス暦)650年から659年までの10年間を指す十年紀。
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650年代
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詳細は「650年代」を参照 650年頃スマトラ島にシュリーヴィジャヤ王国が成立。 650年内モンゴルの東突厥の旧領フフホト付近に翰海都護府(後の単于都護府)を設置。 651年オクサス川の戦いで敗北したサーサーン朝皇帝ヤズデギルド3世が暗殺される。事実上サーサーン朝ペルシアが滅亡、皇子ペーローズ3世は唐に亡命する。 イスラム帝国カリフのウスマーンの命令で『クルアーン(コーラン)』正典が編纂される(ウスマーン版)。 「永徽律令」が施行される。 652年「唐律疏義(永徽律疏)」が編纂され、漢代からの「春秋決獄」が廃止される。 玄奘三蔵がインドから招来した経典や仏像を保存するため長安近郊の大慈恩寺に大雁塔が建てられる。 653年孝徳天皇と中大兄皇子とが不和になり、中大兄皇子以下は飛鳥に還る。 東ローマ皇帝コンスタンス2世が教皇マルティヌス1世を捕縛しクリミア半島のケルソンに追放する。 唐で孔穎達・顔師古らにより『五経正義』180巻が選定される。 大慈恩寺大雁塔に書家褚遂良による「雁塔聖教序」の石碑が置かれる。 654年西ゴート王レケスウィントが属人法を廃止し「西ゴート法典(リベル法典・裁判法典)」を公布する。 655年皇帝コンスタンス2世率いる東ローマ帝国軍が小アジアのリュキアの海戦(帆柱の戦い)でイスラム帝国軍に惨敗。 唐の高宗の皇后王氏が廃され、武照が皇后に冊立される。 皇極天皇が重祚し、第37代斉明天皇となる。 656年 - ウスマーンが暗殺され、アリーが第4代カリフに選出される。この選出をめぐりイスラム帝国で第一次内乱が勃発( - 661年)。ラクダの戦いでアーイシャがアリーに敗北。 657年唐軍により沙鉢羅可汗が捕えられ西突厥が唐の羈縻政策下に置かれる。高宗のこの時期に唐の領土は最大となる。 スィッフィーンの戦い、アリーとムアーウィアの間で勝敗はつかず。ドゥーマト・アッ・ジャンダルの和議が結ばれるが、アリーからハワーリジュ派が離反。 658年有間皇子が謀反の疑いで処刑される。 阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、粛慎を平定する( - 660年)。 東ローマ皇帝コンスタンス2世がバルカン半島南部のスラブ人を制圧。この時のスラブ人は小アジアに入植させられ、帝国防衛のためのテマ制(軍管区制)の原型が形成される。 659年斉明天皇が出雲国造に命じて「神の宮(出雲大社)」を作らせる。
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