クシャーナ朝時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 03:03 UTC 版)
詳細は「クシャーナ朝」を参照 大夏国が大月氏に占領されてから100余年、護澡城の貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)である丘就卻(きゅうしゅうきゃく)が他の四翕侯を滅ぼして、自立して王となり、貴霜王と号した。丘就卻は安息(パルティア)に侵入し、高附(カーブル)の地を取った。丘就卻は80余歳で死ぬと、その子の閻膏珍(えんこうちん)が代わって王となる。閻膏珍は天竺(インド)を滅ぼし、将一人を置いてこれを監領したという。 この政権はクシャーナ朝を指すものであり、丘就卻はクジュラ・カドフィセス、閻膏珍はヴィマ・タクトに比定される。しかし中国ではそのまま大月氏と呼び続けた。また、護澡城の貴霜翕侯がもともとの土着民なのか大夏人なのか外来の月氏人なのかは不明であるが、クシャーナ朝がイラン系のバクトリア語を話していたことは明らかとなっている。
※この「クシャーナ朝時代」の解説は、「大夏」の解説の一部です。
「クシャーナ朝時代」を含む「大夏」の記事については、「大夏」の概要を参照ください。
- クシャーナ朝時代のページへのリンク